自分のもの

大学時代、研究室でお世話になった先輩と久々に会った。 場所は、新宿駅からそう遠くない居酒屋。食べログのお店一覧を適当なジャンルで絞込をかけ、上から5番目のお店。食事にあまり興味のない僕たちのいつもの決め方だった。 「思ったよりいい店だね」 そのお店は部屋は明かりが絞られており少し薄暗く、カウンターの内側に囲炉裏があるという風変わりなお店だった。雰囲気通りにとても静かで、人混みが苦手な先輩の評価は上場だ。もちろん僕も嫌いではない。 僕たちは魚の塩焼き(魚の名前は忘れた)、何かの肉(これも忘れた)、そしてきゅうりのぬか漬け、そして日本酒の出羽桜を注文した。

「最近、以前に増して悪化してきたことがあってね。メールが開けないんだよ」先輩が言った。 メールですか、開けないってどういうことです? 「文字通りだけど、これは機械的な故障とかアプリケーション上の問題を言いたいんじゃなくて、俺の心理的な問題としてメールを開くことに対して物凄い抵抗がある。だから俺の最近の一日のうち3時間はこのメールを開くべきかどうかについて考えることに当てられているんだ。」 ははぁ、それは結構重大な問題ですね。そんなに怒られるようなことをしたんですか? 「いや、怒られるようなことなんて何も無い。出したメールは例えば『これこれの作業をお願いします』とか『この権限の申請をお願いします』とかだからさ。こんなものの返答なんて8割が『了解しました』とか、『ここの内容が不足しています』みたいなもんだろう?そしてその予想は大体当たっているんだよ。3週間くらい寝かせて意を決して開いたら、『了解しました』とだけ書かれていてると俺はなんて馬鹿なんだろうと思うよ」 そりゃそうでしょうね。分からないのは、じゃあ何で開くことをためらってしまうのかってことですけどね。そう、例えば、昔メールで大きなダメージを受けてトラウマになっているとか、わかりやすい。 「勿論そんなこともない。メールでダメージを受けたこともないし、今後もメールでダメージを受けることなんてほとんど無いと理解している。なのに、俺はメールを開くことができない。そして原因が分からないから対処法も分からない、結構難しいだろう?」

この話を聞いて思ったのは、僕も含めて人間って思ったより頭で思っている正しい行動を実際に取れているわけじゃないのかなということです。行動は頭で考えて生み出されるのではなく、理解不能なブラックボックスから生み出されるんじゃないかと思います。そして頭はその行動にただ理由を付けているだけに過ぎない。だから私たちは勉強しなきゃいけないときも掃除をし、寝なきゃいけないのに本を読み、そして色々な言葉で理由をつけているんじゃないかなと。 だから、理解不能なブラックボックスを解体することは一旦諦めましょう。そう、見なきゃいけないメールがあるんだから勝手に見ざるをいけない状態にしてしまいましょう。先輩はSlackを常用していましたよね、Gmailと連携して自動でメール本文がSlack上で表示されるようにしちゃえば良いんじゃないですか。いつも見るものに勝手に流れてしまうようにすれば、開くべきか悩んだりしないで済みますよ。

「なるほどね、確かにそれは有効かもしれない。メールを見られない自分は諦めちゃうわけだね。普通の人がクリックするだけの作業をいちいち仕組みするんだね。なんだか、とても愚かだけどアイデンティファイされている作業で、面白いね。」 そうですね、馬鹿な自分を甘やかすために頑張るってなんだかとても素敵ですよね。自分が自分のものである感覚が心地よいのかなと思ってます。