私の範囲

ドンドンドンとドアの向こうを人が通過する音がする、私はそれで彼が帰ってきたことを知る。彼の部屋は一番奥の角部屋なので、階段のすぐ近くにある私の部屋の前を通過することになる。穏やかで、理知的な言動を取るにも関わらず、足音だけとても大きいのは何だかアンバランスで面白いと思う。

月曜日は週間少年ジャンプの発売日だ。彼は毎週それを買って帰る。しかし、読まずに部屋の隅に重ねている。いつ読むの?と聞くと、いつか読むよと返ってきたことがある。そして実際に先月一ヶ月ほどかけて、一年分のジャンプを読み通していた。私は漫画を熟成させる趣味がないので、月曜日の夜は彼の部屋に読みに行くことに決めていた。

彼の部屋のドアをノックし、そのままガチャリと開ける。寮にはプライバシーの概念は希薄だ。必要ならば鍵をかけることが暗黙のルールとなっている。 彼は私が部屋に行くと、いつもPCに向かっている。おかえり、ただいま。一応の挨拶をして、私はその辺に置かれたコンビニ袋からジャンプを取り出し、座椅子に腰掛けジャンプを読み始める。

「最近、どう付き合っていけば良いのかよく分からないんだよね」と彼は言った。私はゆらぎ荘を読んでいたところから顔を上げる。

彼には同期入社の彼女がいる。その子のことは私も知っており、友人である。だからたまに話を聞くことがある。

そして、その子は数少ない私が泣かせたことのある女の子でもある。 それは、会社の同期飲みだった。たまたま隣の席になった彼女と話していた。その中で、少し見解のズレが発生するような話になった、そうなんだ、それは僕の考えとは違うね、僕はこう思うけど、それは君とは違うと思う、でも君がどう思うかは君の自由だよ。そして、泣かれた。

未だに何故泣いたのかは分かっていない、あれから先一緒に遊ぶ機会があってもあのことには触れていない。 ただ、自分と他人の境界が曖昧な子なのかなと思った。だから、僕に赤の他人である、としっかり線を引かれることにショックを受けたのかなと思っている。

「なんかあったの」

彼は言う。仕事の依頼のメールが来た「今週中にこれをやってくれませんか」、今は仕事が立て込んでいる、その作業はこのくらい時間がかかる、私は今このくらいしか作業時間を確保することができない、だからどう早くても来週半ばまでかかる、そう返信した。その返答を見た相手は「じゃあ無理ということですね」と話はそこで終わった。このやり取りは部署内のメーリングリストで行われたため、彼女は見ていた。

「あの断り方はありえない」後日そう言われたと言う。あなたはいつもそうだ、効率だけを意識して相手のことを考えていない、正しいならそれでいいと思っているのか。

「僕は、逆に彼女は仕事を引き受けすぎていると思っている。一日にできる仕事の量に限りはある、何でもかんでも受けて無限に仕事を増やしても辛いだけだ。だけど彼女は断れない。断ることを悪だと思っている。そしてその引き受けた疲労を夜な夜な僕にぶつけてくる。毎晩3時まで電話に付き合うのは、正直、しんどい。」

彼は天井を見上げ、勿論その考えは良いことだとは思うんだけどさ、と言った。 彼は優しいな、と思った、疲れ切っていても彼女の立場に理解を示そうとしている。

私は彼女が泣いたときのことを思い出していた。意見の対立を面前に突きつけたら泣いてしまったときのことを。彼女は他者を理解し、同時に自分を他者に理解して欲しいと思っているのだろう。だから、他人が苦労していれば仕事を引き受け、自分が苦労していると他人に引き取って欲しいと思う。彼女の自我は、どこまでも広がっており、世界を飲み込んでしまっているのだろう。

私は自分は自分であり、他人は全く別の生き物だと思う。お互いに理解している振りをしているに過ぎない。お互いに解釈不能な内在ロジックで動いており、一部を言語というプロトコルを通して通信している。私たちができるのはプロトコルに基づいた解釈だけだ。だから、言葉はできるだけ丁寧に使い、伝わってほしいことははっきりさせるべきで、察して欲しいという感覚は傲慢だとすら思っている。

同時に、だからこそ自分は誰も助けられないな、と思った。

「どうしたら良いんだろうね」 彼は言った。

私は答える。 「どうしようもないね」 無力な私は、「まぁ愚痴なら聞くよ」と私の境界に線を引いた。