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灯台の道標

森田には、「トイレには行けないから絶対に今のうちに行っておいてくれ」と言われていた。

通された部屋は大学の講義室くらいの広さがあり、一番前にはスクリーンがあり、何人かの人々が発表の準備をしていた。そこから部屋の後ろ側に向かって、4人がけの机が4列に並べられていた。聞いていた開始時間よりは20分ほど早かったが、既にその席は7割ほど埋まっており、合計200人ほどの人が既に着席していた。 想像より大規模で私は驚いた。「すごいね」と森田に言うと、森田は「だろ?」と誇らしげだった。私たちは空いている席を見つけ、並んで座った。

昨晩、「旅行って興味ある?」と森田が声をかけてきた。どうやら旅行に安く行くプランがある、会員になると年々の旅行を安く行くことができる、年に2回くらい旅行に行けば割引でトントンになり、更に普通よりグレードが高いところに泊まれる、ちょっとでも興味があるなら明日説明会があるから是非来てくれ、と誘われた。その流れの早さと、多少の強引さに気圧されながらも、基本的に誘われたら行く方針の私はやってきたわけである。

座って周りを眺めると、人の多さもさることながら驚いたのは周囲の面々である。簡潔に言うと、とても可愛い子が多い。なんだか凄いところに来てしまったような気がするな、と思った。 どうやら他のテーブルも私のように、誘った側と誘われた側のペアのようでヒソヒソとおしゃべりをしているところが多い。知らない人が多いけども、味方も確実に存在する状況。その状況は一抹の恐怖感以上に全体として高揚を生み出しているように感じられた。

12時になる。もうすぐ始まる、そういえばご飯を食べていないことを思い出した。

プレゼンターは話がとてもうまかった。私達の扱う旅行商材が何故安く行けるのか、いかにお得なのかと言った素直なプレゼンから、聞き手の空気を察し、適度な笑いも含ませる、そしてこちらの注目をひきつける絶妙な間。会場の雰囲気はドンドンと高揚していく。そして20分程のプレゼンを終えたときは会場から一斉に拍手が起こった。アンコールでもしてやりたい気分だ。

会場が十分に盛り上がったことを確認したプレゼンターは 「では、ここからは会員制度のお話をさせて頂きます。では、説明担当を変わりますね」と言った。

現れたプレゼンターは恰幅がよく、人当たりが良さそうなおじさんだった。 そのおじさんはドンドンと話していく。

おじさんの話はとても長かった。そして同じことを様々な表現で熱意を持って語る。何度も、何度も。熱を持って。30分、1時間、1時間半と時は過ぎる。 会場の熱は冷めやらない。私はお腹が空いてきた。そして、休憩もなく続く話に、とても疲れてきていた。

おじさんの話はつまり、こうだ。

あなたが新たな会員を誘うと、2人ごとに月々3500円のお金が入る。 そしてその誘った人が、別の人を誘うとその人に対してもあなたに報酬が入る。 会員はドンドン増えていっている、今入るのが一番お得だ。 入会には最初に10万円と月々1万2千円がかかる。なに、8人誘えばもとが取れる。そこからはただただお金が増えるだけだ。 そう、あなたの幸せはここにある、あなたたちは運が良い。こうやって幸せになるチャンスに巡り会えた。

そう言っていた、と思う。これってマルチ商法じゃないか、ということも気づいていた。

2時間の話が終わり。おじさんは「では、ここからは個別質疑応答にいたしましょう」と言った。 すると、各テーブルに対してスタッフが椅子を持って近づいてきた。私達のテーブルにも一人の爽やかな青年がやってきた。

「初めまして、先ほどの説明だけじゃ分からないと思うから説明しますね。何か分からないことはありますか?」

わからないこと、何も分からなかった。ご飯が食べたかった。ただ私は相手の気を悪くさせないように言葉を選ぶ。8人も誘うって大変じゃないですか?10万円ってやっぱり高いと思うんですけど。ドンドン会員が増えていったら旅行の予約を取るのも大変ですよね。

1質問をすると10返答が来る。これが延々と続く。終わりのない螺旋階段を降りている気分だった。

これって、マルチ商法ですよね、とも言ってみた。 「でも、マルチ自体は違法じゃないんだ、悪い印象があるだけでそれはそこが特別悪質なだけなんだよ、私達のところは……」

そんなことは知っている。本当はそんなことが聞きたいわけじゃなかった。マルチの善悪なんか興味はない。何故私は食事を摂ることもできずに、こんな説明を受けているのかが分からなかった。そんな冷静なことが考えられていたのも最初だけだった。 1時間も経つと、いつしか私は入らない理由を彼らに問い続け、そしてそれを否定され続けるようになっていた。いや、だって、でも……そんな言葉が増えていった。

そして、これもまた2時間近く続いた。もう私は限界だった。何も考えることができなかった。

長い長い質疑応答が終わると、アンケート用紙が配られてきた。 そこには簡単なプロフィールと共に、このような設問があった。

「あなたは入会しますか?」 はい/いいえ/検討中

私は悩んだ末に、検討中に○をした。

次の設問、「あなたが入るかを悩んでいる理由は何ですか?」。お金の理由、友達を誘う自身がない、旅行に行く予定がないなどいくつかの設問が並んでいた。 私は思いつくものに○をして、次に進む。

「その入らない理由が無くなったときに、あなたは入会しますか?」はい/いいえ

はい/いいえ

私はそこに印を付けることができなかった。もう考えたくなかった。私は大きくはい/いいえ両方に○をして、森田に見られないようにアンケート用紙を近くのスタッフに渡した。

森田が「どうすることにした?」と聞いてきた。 「検討中」と答えると、「ふーん、そうか。まぁよく考えろよ」と言われた。

どうやら入会します、に「はい」をつけるとそのまま入会書が配られるらしい。そこで私はまた愕然とする。 みんな書いているのだ。そう、みんな。前に座っている髪の長い子も。右に座っているいかつい兄さんも。左も、後ろも。みんな。 10万円の支払いと月々1万円を超える支払いを許可しているのだ。みんなが何を考えているのか私には全然分からなかった。 書いている人は頭を下げている。多くの人が少し頭を低くしているのは凪いだ海のようだった。私は暗い海にポツンと放り出されていた。ただ僅かだが、私と同じように頭を上げている人たちがいた。他より少し高いその姿は暗い海の灯台のようだった。

その灯台は間違いなく私の道標だった。

「では、これで説明会を終わります」

司会者がそう言って、私はやっと終わった、とただただホッとした。空腹はもう限界だった。 森田に「このあと懇親会があるけど、出るってことでいいよな」と聞かれた。有無を言わさぬ感じで。

空腹は確かに限界だった、美味しいものも出るのだろう。

私は灯台の道標に従うことにした。 「いや、悪いけど今日はやることがあるから帰らせてくれ」 「あー、そうか。ちょっとでも興味があるなら出といた方が良いぜ?いや、勿論無理にとは言わないが」

無理にとは言わないが、と繰り返しながら誘う森田に、悪いけど悪いけどと繰り返しながら部屋を出た。

森田は別れ際に最後にいった。

「今日のことは自分の頭で考えてくれ。誰かに言われて考えを改めるのは、俺は違うと思うから」

外はとても寒かった。お腹も空いていた。

そして、私はトイレに行きたくなった。 思考だけではなく、尿意まで奪われていたことを思い出した。