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橋の下の猫ちゃん

この河川敷は大学時代にたまに走りに来ていた場所だった。今は昔走ったことのある道をダラダラと歩いていた。気温は低く、体は冷える。たまにランナーが私を追い抜いていく。 しばらく歩いていると、右手に付けたの活動量計がブルブルと震えた。走る時は左手に別の時計を付けるため、活動量計は右手に付けることにしている。右手に時計のようなものを付けている私を見て、変わった場所に時計を付けているねとたまに言う人もいる。私はいつも曖昧に笑って返すが、時計を左手に付けることが一般的になった理由を知らないし、興味が無いので変わらず右手につけている。

今日の歩数のノルマを達成したし、あの架橋の下までたどり着いたら引き返そう。 橋の下は日がかげり、一層寒さが増していた。橋を支える柱には張り紙が貼ってあった。そこには子どもの字でこう書いてあった。

――はしのしたにいた、ねこをかえしてください

ランドセルを背負った女の子がパタパタと走ってくる。ランドセルの中にはビニールで包まれた給食の残り。橋の下についた女の子は自分で付けた猫の名前を呼ぶ。その名を呼ぶと、猫はにゃんと泣いて草陰から顔を出す。女の子はランドセルから給食の残りを出し、それを交渉の材料に猫に撫でさせてもらう。それが日常だった。 ただ、今日は猫は出てこない。探しても見つからない。泣きそうになりながら、少女は思う。誰かが盗んだんだ。家に帰った少女は、お母さんに大きめの紙を貰い。文字を書き、セロハンテープを持って、橋の下に戻ってくる。そして、柱に精一杯背伸びをしてなるべく高い位置に、その紙を貼り付ける。はしのしたにいた、ねこをかえしてください。

そんな想像をした。

橋の下の猫は誰のものだろうか。その猫は野良猫だ。橋の下という場所は公共の場所だ。ならばそこに住む猫は、公共の所有物だろう。だから、いなくなっても、残念に思っても、怒りや増してや盗まれたという感情は湧かない。けど、この少女には間違いなく、その猫は自分のものだったのだろう。

じゃあ、もしかしたら彼女にとって、橋の下というのは彼女のための場所だったのかもしれない。 子どもは世界を僕と違う捉え方をしていることをことは多くある。特に自分と他人、自分のものと他人のものの区別が曖昧だな、と思うことはある。同時に、大人になってもこの感覚が曖昧な人を僕は未熟だなと思う。

赤ん坊は良く怒る。自分の保護者が自分の思ったように動かない。ご飯を食べたいと自分が思っているのにご飯を出さない、おむつを替えない、そして自分を愛さない。そうやって、他者と自分の境界を学んでいく。言葉を操れるようになり、他者とコミュニケーションをできても、この学習は続いていく。人と自分は違うのだと。そうやって、自分という範疇はどんどん小さくなっていく。

年を取るにつれ、挫折し、無力感を覚え、世界に対する自分の領域はどんどん小さくなっていく。そして、最後はいなくなる。 生まれた瞬間から死ぬまでに、時間が立つにつれて、自分という感覚はどんどん小さくなっていく。とても怖い感覚だ。 もしかしたら、愛とか恋とかってその恐怖心から生まれるのかな、と思った。

他者を自分に内在化し、相手が自分になっていく。そうやって自分の領域が増えていく。そんな感覚を求めるのだろうか。

少し強い風が吹き、肌寒さを感じる。おじいさんランナーが僕の後ろを通り過ぎていく。 猫ちゃん見つかると良いね。そして、僕はそこを後にした。