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捨てるものと、捨てないもの。

最初はダンボール2つしかなかった。その2つすらスカスカだった。

中には、バスタオル1枚と最低限必要な日用品と、服と、パソコンと、よつばと12冊が入っていたことを覚えている。寮母さんには「本当にこれだけなの?」と聞かれた。

 

この3年間で私の部屋には色々なものが増えていた。まず、バスタオルは1枚では足りなかったので、新しく買った。必要と思って買った服の何着かはすぐに着なくなった。貰って封を開けなかったもの、何度も読み直した本、何となく記念に買ってしまった。

 

必要なものと、不要なもの。

 

私は今月一杯でここを出て、別の場所に引っ越す。

しまわれた色々なものを取り出し、必要と不要により分けていった。私は殆どが不要なものということを知っている。

 

体には毎日少しずつ垢が溜まっていく。この部屋も同じようなものだ。私はどんどんゴミ袋に垢を詰め込んでいく。

 

 

物は自分の意図とは関係なく降り積もっていく。物を捨てることは、意思決定を必要とする。そこには私の意思が存在する。断捨離には私の世界が現れる。

 

私は意思を持って捨てることが好きだ。物を眺め、自分という反応モデルと照らし合わせ、閾値により判定され選別される。それを通し、鏡のように私の内面モデルが表現される。そして、私の世界が現れる。

 

子どもの頃は整理が苦手だった。整理をするくらいなら捨ててしまいたかったが、私は今自分の部屋にある物の所有権が私に無いことを理解していた。捨てるには許可がいる、どこかから聞こえる「もったいない」という声が嫌いだった。だから私は整理することを放棄して、部屋には色々なものが溜め込まれていった。

今の部屋の所有権は全て私にある。捨てるのも、残すのも私の自由だ。「もったいない」という声はもう聞こえない。

 

思考や概念や関係も捨ててしまいたいと思う。

私は生きていくだけで毎日汚れていく。体には新陳代謝が、思考にも多くのノイズが現れる。本当に必要なものは極僅かのはずなのに。毎日、先もなく、意味もないことを考えてばかりいる。

 

私は半年くらい毎日日記をつけている。今日という多くの無駄の中に、一つくらい明日に残すべきものが無いかと探すために。毎日浴びるシャワーと同じように、無駄なものを洗い流すように。

一年前、その頃は心も体も薄汚れていた。あの頃よりは少しは垢が落ちただろうか。

 

 

1時間ほど作業をすると、部屋には大量のゴミ袋と、7個のダンボール箱が生まれた。ダンボールの多くには、この3年間で集めたボードゲームが入っている。新居では、キレイにボードゲームを並べられるように、棚を買いたいと思っている。