私の物語
私の物語はいつから消えてしまったのだろうか。
ただの文字は集まると、文章となり、文章は集まると物語となる。物語は誰かが読み、誰かを楽しませ、誰かを唸らせ、誰かを泣かせ、そして誰かに愛される。
私の一日は集まって、一週間となり、一年となり、一生となる。私の一生は誰も楽しませず、誰かを唸らせず、そして誰かに愛されることもない。
この感情は現代だと、承認欲求と呼ぶのだろうか。承認欲求として、引き合いに出されるマズローの欲求の階層によると、承認欲求は所属の欲求の一つ上の階層にある。つまり、私は所属の欲求が満たされ、その更に上の階層でモジモジと苔のようにへばりついている状態ということだろうか。承認欲求を満たし、自己実現の欲求と戦う人々からは私は愚かに見えるのだろうか。
このような自分と言うものに対する空虚さは常々感じている。ブログを書くときにいつも下書きをする。そして、読み返し、無力でありながらも、その無力さに抗うでもない、正に湿った苔としか言いようがない感情を見つめ、吐き気を催し、表に出すことを恐れ、日頃合ったエピソードを拾い上げ、そこに混ぜ込み、何とはない、ただの日記のような形で公開しているのが現状である。
そのさまは、女が好いた人への料理に自分の髪の毛を仕込むようで、自分の中の穴を覗き込むようでとてもおぞましく感じる。
ただ、今日の日記はそのような行為をせずに、初稿のまま投稿をしている。
それに至った理由は、あまりはっきりとしないが、米澤穂信の「追想五断章」という小説を読み、そこで主人公が意識する「自分の物語」というワードに些か影響を受けたと思っている。
追想五断章で、主人公は一つの過程の悲劇を追っていく。その中で、悲惨ながら彩られたその家族の物語を読み、自分の人生の空虚さと比べ、羨ましく思う。この感覚が何となく分かってしまった。
誰も読まないと言ったが、自分の物語の読者が一人いる。それは自分自信だ。
作者である私にとって、読者たる私は唯一の存在だ。
読者たる私は、物語を読み、ここが悪い、ここをこうした方がいい、何故こうしないのかとヤイノヤイノ言い出す。唯一の読者に気に入られたい私は、その読者の意見を取り入れ、中身を書き換え、脚色し、読者たる私が満足する物語へと少しずつ変えていく。
では、これは私の物語なのだろうか。読者である私と、作者たる私、私の中では明確な区別があるような気がしている。一方、どう考えても同一人物だとしか言えないような気もする。私が書き、私が書き換えた物語は私のものなのだろうか。
「どうしたら幸せになれますかね」と人に聞いてみた。
「幸せそうだから大丈夫ですよ」と言われた。
客観的にも、主観的にも私は幸せな気がする。
それで良いんだろうか。