昔は発達障害がいなかったのではないか
最近発達障害と診断される人が増えているとか。
これは言葉が独り歩きして、「もしかして私もそうだったのかも」みたいな人が増えたのかもしれない。昔はそうだった人も診断されることなく、なんか変なやつで抹消されたのかもしれない。
別の考えとしては、本当に昔はとても数が少なかったのかもしれない。
自分が大学生くらいから合理性という概念が世に広く浸透した。今までずっとあった狭い関係性の中での最適な戦略が実は最善ではないという可能性が提示されるようになった。
これに気づく人もいるし、気づかない人もいた。気づくかどうかは完全に環境要因の運だった。
会社という仕組みはその矛盾した構造をずっと解消できずにいた。会社という集団には文化や社風という儀礼・礼儀作法がずっとある。ただ会社というのは営利のために合理的選択を求め続けることを期待されている。
これはミクロな部分ではよく口に出る「飲み会とかいまどき古いよね」
でもマクロな部分では全く解決されないし、それはそれで一つの合理性だよねという形で回収される。
この非合理な社会というものと合理性を同時に達成するのってとてもむずかしい。
そして誰しもがこの矛盾に無自覚である。
ブラック企業がちゃんと叩かれるようになった、ということを良いことかのように言っている人がいる。それは確かに良いことかもしれないが、それは会社という存在の矛盾に対しては無自覚なままである。
ブラック企業は合理性を排除して、社会というものを突き詰めたものである。それによりこの矛盾を解消している。
最近のグローバルな企業は逆に合理性のみに特化させている。
ただ多くの企業は社会と合理という矛盾を孕んだまんま動き続けている。
この矛盾に気づいてしまい、バランスを取ることができず合理性のみで行動をするようになった人が発達障害と呼ばれるようになったのかもしれない。
合理性にどこまで準拠できるかどうかは能力の問題になるので、発達障害な人が合理的と呼ぶわけではないが、あくまで決定基準の話。
昔は発達障害がなかったというのは会社が社会と合理性という矛盾を抱えてなかったら少なかったのではないか。
想像のお話です。