安易に言われる多様性に納得できない。
「多様性が必要だと思うんですよ」
その言葉に私は違和感を覚える。
多様性は必ず必要なのだろうか。
多様性は無批判に肯定されている。
多様性はなぜ肯定されるのか。多様性の対極である、選民思想的なものが批判的な対象だからではないだろうか。
選民思想が批判されたからといって、それは多様性が素晴らしいものになるわけではない。
私が批判したいのは同質性が高い場所に、「多様性が素晴らしい」という言葉のもとに持ち込まれる多様性である。
多様性がある場所には多様な価値観が存在する。
これは事実である。多様な価値観がるとはどういうことか、他者と同じコンテキストで会話することができない、ということが意味する。
今まで同質性が高く、ハイコンテキストな会話をなしていたところに、かなりローコンテキストな会話が要求されるようになる。
しかし、誰しもが自分のコンテキストのレベルを調整できるわけではない。
結果、「あいつは言葉が通じない」と断絶が起こる。断絶はたまに悲劇として結実する。
「多様性のある社会」とは何だろうか。
多様性とは他者に対して強い無関心を期待される社会じゃないだろうか。
「言葉が通じない人たちがいるが、彼らは彼らだけの言葉を喋っている」ということを受け入れた社会じゃないだろうか。
そんな
何となく言われる多様性は「皆仲良く違いを理解しましょう」というお題目に行われているような気がする。それは悲劇を生む。
「皆違うことを考えているので、他者の思想や言葉に無関心になりましょう。あなたの世界に対象を写像してはいけません」
これが正しい多様性のように感じる。