そもそもについて考える
倫理学のそもそも、「良い」とは何だ。「良い」があった場合、我々がそれに従う必要はあるのか、など。そもそもがメタ倫理学らしい。
そのそもそもに対する解釈を、派閥とその批判の繰り返しで構造化する本だった。
多分実際はもっと複雑なんだろうが、全体感を掴む入門書としてはとても良かった。
まだ良いに対して答えが定まっていない中、自分たちの日々の行動に批判が可能なのは当然で、それに結構苦しんでいたりもする。
本書はそのような良さという判断の根拠に対しても様々な批判が可能であることから、自分(もしくは他者)の行動が批判可能であることが自然なように感じてくる。
他者に批判可能である状態は「道徳的相対主義」、つまり人それぞれだよね、と表現されるが、もっとそれ以前に私達の判断基準たる良さの不明瞭さがある気がする。それは相対主義自体が批判可能であることからも分かる。
狐を笑ってよいのか。
この中の一節。
おそらく多くの人はハッピーピルを飲むべきではないと言うのではないだろうか。その理由を説明するのは難しいが、大事な点は、自分が望ましい状態にあると感じているだけでは、われわれは自分が幸福だとは思えないというところにあるように思う。
児玉聡. 功利主義入門 ──はじめての倫理学 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1461-1464). Kindle 版.
ハッピーピルとはつまり「飲めば幸せになる薬」である。
「主観的幸福」と「客観的幸福」では客観的幸福が優先されるだろう、と著者は主張する。
私もこの意見には同意見であり、実際多くの人が客観的幸福を優先して行動しているように見える。
しかし、これをツイッターでアンケートをとると、結構な割合で主観的幸福に投票する人がいるのではないだろうか。例えば、ストロングゼロを飲めば嫌なことを全部忘れられて良い、という大喜利のような主張がされ、割とRTで回ってくる。
ハッピーピルはより完成されたストログゼロである、という考えで、これに同意する人がいる気がする。
その主観的幸福は本人の問題を超えたところで生成されたすっぱい葡萄から生まれるかもしれない。そこに対してどう考えれば良いのか良くわからない。
感情に理由をつけるな
Discordで飲みをした。そこで一緒に飲んでいた、友達が苦しんでいた。
「人生が無意味でやる気が出ない」
彼はニヒリズムに陥っていた。苦しんでいる人は救わねばならないと思った。また、間違った思想が機能しないなら、破壊しないといけない。
彼に質問を繰り返し、一つ一つ分解させていった。
言葉は定義を確認し続けることでどこまででも解体できる。
意味がないのその先には意味自体が定義されず、ないとすら言えない本当に何もなさがある。意味が「ない」のである。
そして、最後は「私はそう思う」と理由もなくただ主張し続けるのみの状態にいたる。
そこにいたるとどうなるか。
「人生が無意味で、やる気が出ない」という言葉が「やる気が出ない」という状態に至る。ただやる気が出ないのである。状態があるのみである。
悪い状態に理由をつけるな。なぜなら、理由は固定を促すから。そして、理由は必ず間違えるから。
間違った理由によって悪い状態に固定されるほど愚かなことはない。
幸せな状態を固定する理由を破壊するほど、野暮ではないが不幸な理由は破壊した方が良いだろう。
私達はずっと都合の良い理由を生み出し続け、踊り続けるのみである。
樋口円香について語る
大学の友人と草津温泉までドライブしてその帰り道。
「樋口円香*1のような彼女が欲しい!」私は叫んだ。
「わかる!」
「わかるんだ」
「わかってしまった。それは危険な物語だからあんまり口にしてはいけない」
私達は群馬県のはらっぱというスープパスタ屋に入った。
「樋口円香はツンバブだと思う。今はまだ名付けがされていないが、そう思う」
「樋口円香はすごい。寝ていたら毛布をかけてくれるらしい」彼はTwitterを眺めながらそういった。
「いや、樋口円果はまず何もせずにオフィスを出る。そしてしばらく歩いてから、コンビニに入って飲み物を買い、オフィスに戻って寝ていることを確認してから毛布をかけるはず」
「わかる!わかってしまう!!わかるなぁ」
「30歳にもなって妄想SSみたいな話をしてしまって結構悲しい」
「樋口と浅倉*2の百合は違うと思う」
「何が違うの」
「樋口は完璧な存在である浅倉の世話を焼くことによって、自尊心を獲得するある種の依存である」
「それは、百合ではないの。」
「まぁ百合といえば百合だが」
「百合が定義が難しい関係性自体にあてられる概念だから、別のワードが当てられるならそっちのほうがいいみたいな?」
「そういう感じ」
「樋口は自己実現を怖がっているところがいい、共感できる」
「樋口が好きな人は樋口のツンバブ要素と同時に、自己も投射している?」
「僕はずっとそう思っている。樋口との関係性は挫折した者同士の傷のなめ合いだと思う」
「アイドルを挫折して大学生になった樋口円香について考えていきたい」
「アイドルを挫折した樋口円香はただ口が悪いだけの人では?」
「だからいい。挫折した人の方がより虚無と強く立ち向かえる」
「じゃあ、おつかれ」
「はい、またね」
生きるのが辛くない
死にトリというサイトが流れてきた。
自分は生きるのがつらい指数は3点だった。だいたい平均20点前後、辛くなってくると40点前後らしい。割と低い。自分は生きるのが辛くないらしい。
そういえば、最近希死念慮が薄くなったなとは思った。昔はもっと死にたかった気がする。今も別に生きたいわけではないが、まぁ生きるも死ぬもなるようになるだろうな、というこだわり無い感じでやっている。
友人などの点数を見ると、自分の中で解決された問題について悩んでいる人は結構点数が高いように見えるので、もしかしたら昔は自分も高かったのかもしれない。
相手の悩みはそう特別ではないと思っているが、それを言っても何が起こるわけでもないので、特に口にしない。自分の悩みも今振り返ると、本来普通に乗り越えるべきものが、予想もしない石によって乗り越えられていなかったと後から気づくのみである。
「いきていくのは簡単で、いきない方が遥かに難しい」
「3331」という曲があるのだが上記はその歌詞である。自分はこれが好きだ。
自分は多くの信頼できる友人がいるし、どん底に落ちたときに助けてくれるであろう姉弟がおり、そもそも現在レベルでは使い切れない以上の金もあり、仮に無一文になっても困らない能力とスキルもあり、逆に特別に責任のある立場や生まれでもないので何かを為さねばならないというプレッシャーはない。
上記のものも特に頑張ったり、努力で獲得したわけではなく、何か普通にあるな、という感想である。
生きていくのは簡単で、いきない方が遥かに難しい。
ただ夢や希望が弱いので、あんまり人がなりたい姿ではないので、そんなに嫉妬もされない。一つの側面としては羨ましがられるが、総体としては何かが欠けていて、なりたい姿にはならないらしい。
一時期は何かを為さねば、という気持ちになったがまぁまぁ凄いことを成した人と親しくなった結果、何かを成すにはそれなりの下地が必要で、自分にはどうやらそれがないらしいということも分かり、気にならなくなった。
むしろ、その人達もある種世代の下地の結果で成立していることが分かったので、自分のやるべき範囲でやって子孫に残すのが良さそうという結論になった。この点は、今んところ結婚の道筋が見えてないので若干達成され無さそうだが、妹が結婚したから多分大丈夫なんじゃないかなぁ、と楽観的に考えている。
それに、駄目だとしてもまぁちょっと残念なくらいか。
自分は思い浮かんだことについてはインターネットに放流したいと思っている。ツイッターは好きだ。ただツイッターに幸福について流しても、あんまり良く無さそうなので、読まれにくいところに書いている。
なぜ、わざわざ自分はこんなことをブログに書くのだろうか。自分は論理的に考えを深めていくのは苦手なので、いつも一問一答で考えてふんわり全体を把握することをよくする。
今回はなぜ自分はわざわざ幸福であるということをインターネットに書くのか。
誰かの幸福の助けになりたいのだろうか。
否。そもそもこれ読んで幸せになる人はいないだろう。
誰かに自慢したいのだろうか。
そうかもしれない。ただ仮にこのブログがバズって多くの人に読まれたら、多分記事は消す気がする。あんまり読まれたくはない。
ちなみに自分は友人にも割と幸福で賢いということを主張する。ただそれは周囲の人が同様に幸福で賢いので成立しているという自覚がある。環境が変わったらやめる。
なぜ、手元の日記でやらないのだろうか。
これは難しい。自分の中では140字を超えたツイッター感覚なので、多分何となくボトルシップしたいのだろう。何となくだろう。人間の行動にすべて意図を考えるのは不毛である。
結局、特に理由はなかった。不都合があれば消すし、不都合がなければ残す。
自分の預かり知らぬところで発生する不幸はまぁ預かり知らぬ。
例えば、仮にこのブログを友人知人に広まったところを想像してみる。
自分の理解では、自分は友人知人から特に問題もなく淡々と自分の世界を生きてそうだと思われている気がする。読まれてもまぁ自分が考えてそうだなと思われて終わる気がしている。
友人知人について考えていて思った。
皆僕について詳しい。私の考えていることについて、皆私より分かっているなと感じる。だからきっと自分がわざわざこういうことを書く理由も察しがつくのだろう。むしろ聞いてみたいくらいだ。
真実と正しさについて思ったこと
日常生活やTwitterでは架空のことしかつぶやかないので、ブログは基本的に真実の話をするようにしています。
自分の中では真実と正しさは異なるものだと思っています。
真実は感覚的にスキャンダラスで、理想とは程遠く汚い現実であり、正しさはその汚さを踏まえつつ、世界や周囲と折り合いをつけるために調整された、合意可能な世界だと思っています。
例えば、自分の理解している真実の一つは多くの人々は他者の言葉をほとんど理解することができず、相手の言っていることを理解し、意図を汲み取り、それに対して適切な行動ができるというのは限られた人のみができる能力だと思っています。
それを正しさの側面で理解すると、相手に伝える場合は相手の気持ちを考え、人が理解しやすいデザイン・表現を考えながら伝える必要がある、ということになります。
真実の特性について述べます。
真実は伝達されません。それは真実はその内容のスキャンダラスさや元も子もない感じが他者に伝わりにくく、言葉にしても「直感的に何か違うな」と素直に飲み込みにくいからです。真実は耳にしても、必ず記憶には残りません。
反証可能であることは真実ではないことを意味しません。
真実は論理のような空虚なものによって支えられていないからです。論理は前提によって成立しますが、真実は論理とは異なりただそれのみによって存在しています。
自分の中では真実は生きていて発見した経験知で、正しさは多くの人が伝え語ってきた集合知です。
正しさは真実に基づいて構築されないといけません。最近は真実の無い正しさが多く存在するように見えます。真実に基づかない正しさはそもそも正しいのか?という疑問も湧きますが、正しいかのように表現されている正しくないものの多くは真実に基づいていません。
そういう意味で正しさはとても論理的である必要があります。正しさは論理的なので、とても空虚です。それは所詮ランダムに配置された前提の射影に過ぎません。
ただ正しさを他者に伝えることは人生の娯楽の中でもかなり上位に入るのでオススメです。
逆に真実が伝わらないということに嘆いても意味はありません。そもそも真実は基本的に伝達不可能なものだからです。なにかの偶然により真実が共有されることもありますが、偶然だと思ったほうが良いでしょう。
真実を発見し、正しさを構築して、他者に伝え人生を楽しんでいきましょう。
正義がない
30歳になって、昔のような盲目さやわかりやすい正義のようなものが自分から失われた感覚がある。
様々な一言申したくなる自称があると、素朴な反応が最初に浮かび、その素朴な反応を別の側面から捉えた反対が浮かび、双方が状況によって決定するな、という理解をして結局人それぞれだよね、という虚無なワードを考えて終わる。
コロナの中は様々な人が様々なことを言っていた。皆自粛しろと言ったり、経済活動自粛に対する批判だったり。自分としてはどちらでも良いし、言われた通りにやるとおりだった。
それは自粛が発生しても、極端に収入が減るような仕事ではないし、仮に仕事が無くなっても別の仕事がすぐ見つかるだろうし、別の仕事が見つからなくても1年以上のんびり暮らす貯金もある。
結局、個人レベルではどうでもいい他人事に過ぎない。
じゃあ全体としてはどうなんだろう、というところでは「わからない」になる。基本的に分からないことは黙して語らない。この態度自体が他人任せの無責任な態度と批判されうるが、何も言わないことで批判されたことは人生でほとんど無いので、皆話さない人にはそんなに興味がないのだろう。
結局、色々な意見のどれにも与することもできず、自分なりの意見を持つこともできず。どっちもどっちだねーという気持ちになりながら漂っている。
この態度は少し仕事に過適応し過ぎたのかもしれない。仕事は結局いろいろなことを言っている人たちの間で全員がそこそこ納得する落とし所を見つけ、やっていくもんだと思っている。「自分なりの」という主張をする人がいるが、もしそういうものがあったら起業をする。そういうのがないので、他者の目標の成就に協力して、サラリーを頂いているのである。
最近の流行りはネオリベ的自己責任論らしい。
自己責任と自己研鑽、全く素晴らしい、良いことだと思う。努力はある程度報われるし、努力自体はそこそこ楽しい。ただ、この努力自体がそこそこ楽しいという感覚こそがそんなに普遍的ではないことが問題なのだろう。
自己責任論、多くの人は他者に向けることしかできないのだろうか。あいつは自分のやるべきことをやっていない、と。
そして、うまく行かなかった人はその目を恐れるのではないか。「「あいつが悪いのは自己責任だ」と思われたらどうしよう」と。
自己責任論が好きな人って、自分が簡単にできることをできない人を結構見たことあるような気がしていて。それを見た上で、「すべてのことを人が同等にできるはず」は流石に現実を見て為さすぎるような。それは結局「自分が簡単にできることをできない無能なやつらに、足を引っ張られているな」という他責的な自己責任の反対の世界からの呼び声によるものなのではないか、と穿った目で見てしまいます。
こういうことを考えてしまうので、自己責任という主張をした瞬間に生じる他責的なパラドックスっぽい何かが見えてしまって、強く主張する気が失せてしまう。
それはただ正しくありたい、という意味のない欲求で、この虚無をうまく乗りこなし、やり過ごしていくことが最も格好いいのかも。