恋愛を語るタブー。

好きな漫画の新刊が出ていた。恋は光という漫画だ。
主人公の大学生は、恋をする女性が光って見えるという能力を手に入れた。

 

恋が可視化されるというお話だ。恋というものが観測可能なものとなった。観測可能となった結果、仮説検証可能なものとして扱われる。恋をしているなら光る、恋をしていないなら光らない。


恋をするとはどういった状態に発生するのか、この感情は恋ではないのか。その検討や思惑の動きが面白い。

 

 

自分の感覚では、恋や愛というのは定義として絶対善であり、それ以上踏み込むことが許されず、検討することもできないという扱いが一般的だと思っていた。
それが恋を、光という具体的な事象に落としたことで、恋とは何なのかということを更に追うことを可能にした。これは今まで持っていた恋の議論の不可能性という価値観を揺さぶったことに面白いと感じている。

 


ずっと違和感を持っていた。
物語を読んでいて、恋や愛というのが秤の上で無根拠に重いものとして扱われていることを。

金 vs 愛
仕事 vs 愛

愛以外が勝つには強い理由が必要とされる一方、愛が勝つことは無根拠に許されている。そして「必ず最後に愛は勝つ」とKANは歌う。


皆恋なんて信じていないのではないかと思っている。
僕たちが議論すら許されずそれらを肯定するのは、心の奥底ではそれをまやかしだと思っているときではないのか。議論を許さないのは突き詰めて考えると無いことが分かってしまうから。

例えば、「お墓を何故壊してはいけないか?」という議論は許されることに対して、「お墓を何故壊して良いか?」という議論は許されない。
前提の時点で既に答えが規定されている。そもそも論に立ち戻ることを倫理的に許されない。お墓は壊してはいけないものですよね、そうでしょう?

 

これは皆、お墓が象徴する幽霊や先祖霊というのをむしろ信じていないからではないか。霊は見えないし、本当にあるかどうかが分からないから。破壊しても何も起こらないし、世界は何も変わらないことを私たちは知っているからではないのか。
だから、倫理的な前提でストップをかけている。

 


恋愛だってこれと同じではないのか。
私たちは恋愛がまやかしであり、真実ではないと薄々気づいている。だから吟味自体がタブーと成っている。物語上で無根拠に善として扱われる。


恋は光は、無根拠に存在すると信じられ、存在自体を問われることをタブーとされたものを、現実のものとして可視化することで、タブーに踏み込むことを可能にした。

 

だから面白いと思った。