大縄跳びが飛べない

フィリピンに行ってきた。

目的はポーカー。

ポーカーは自分の趣味だ。勝つことではなく、正しいことが正当化される世界というのは素敵だと思う。

現実は結果しか語られず、運というものすら必然として語られることが多すぎると感じている。

 

ポーカーはどんなに正しくても勝ったり負けたりする。

プリフロップで渡されたAAは70%近い勝率をほこる、これより強いハンドは存在しない。それでも30%必ず負ける。このとき30%の負けを引くことはミスではない、運が悪かっただけだ。

しかし、負けたけどミスではないという事象を人間が理解することは難しい。

現実に発生した事象ではなく、自分の思考のプロセスを考え直す必要がある。正しいか正しくないかはほとんど自己判断になる。分からないものをわかろうとする行為。

とても良い行いに感じる。

 

 

フィリピンは初めて行ったが、とても洗練されていない国だと思った。

店には多くの店員がワチャワチャしており、レジの消化は遅い。客側も洗練された動きをせず、マクドナルドではレジの前で5分以上メニューを決めている。

これが日本では後ろでイライラしてTwitterにそのイライラが垂れ流されるのだろう。

 

自分はその光景をとても良いものだと思ってみていた。

互いが互いに迷惑をかけていたら、それはそれで平等ではないか。

自分が気を使っているので相手も気を使え、という精神は自分には辛い。

それは皆で気持ちよく大縄跳びを飛ぼうという話だ。そして引っかかった人はもっと頑張らなきゃと追い詰められる。

出来ない人にはとても難しい世界だと感じた。

 

ただ物事はどんどん洗練されていくのだろう。

今の世界はどんどん進化して、加速していく。

そこには追いつける人もいるし、追いつけない人もいる。

 

世界の速度に追いつけなかった人は今をどう行きていけば良いのだろうか。

映画のJOKERを思い出す。JOKERは悲劇の主人公というよりは、ただ追いつけなかった人だ。

 

JOKERは小柄な彼と仲良くやっていけたらきっと幸せだったのだろう。

大縄跳びが飛べなくても砂場で遊ぶことはできる。

 

でも、人はやはり多くの人と共に大縄跳びを飛んでいきたいと感じている。

 

そこに、とても難しさを感じている。