快楽の最大化は幸せたりうるのか

「幸せとは何でしょうか」

「難しい。まず具体的な事象をあげることはできない。何故なら、現代において幸せは相対的であることに気づかれてしまっている。そのうえで具体的な事象を幸せに掲げることに合意できる人は少ない。合意できないものが幸せにあることが、そもそも幸せと言えなさそうである事も考えると、具体的な事象は幸せとなりえないだろう。

「では、自分の快楽の最大化は幸福となりうるのでしょうか。快楽は個人ごとに異なります。これを最大化させることは幸福と同義となりうるのでしょうか。とはいえ、この質問をすることは私がこの回答に対する疑義を既に持っているからに他なりません。最近、価値の相対化に疲れ、このように個人の持つ報酬系に従って行動することが幸福であるかのような言説を見ますが、それは本当に幸福なのでしょうか。それでは、薬を使い、無理やり幸福を引き出し続けることが当人の幸福となってしまいます。そこに対して、私は論理的ではなく、直感的に何かが違っているような気がするのです。しかし、このような私の直感自体が幸福を妨げているとなると、私の幸福とは無理やり体を縛られ、私の自由意志のないまま無理やり薬を投入され、脳内物質としての快楽を得ることとなります。本当にそれは幸福たりうるのでしょうか。」