人は善意の元に行動をしている

人は皆善意の元に行動していると信じている。

しかし、その善意が他者から理解可能だとは思っていないし、当人の善意を当人が上手く表現できているとは思っていない。

 

また悪意すらも、当人の善意に従った結果他者を攻撃する対象とみなしたという構造で理解している。所謂いじめなどは善意のための行動か?という質問もYesと返す。

集団から異質と判断した存在を排除することは、当事者の善に基づいた行動である。

 

これで理解すると、「善」という行動には大きく2つ存在する。

1. 個人的な善

2. 社会的な善

 

個人的な善とは個人の狭い閉じた世界においての最善、社会的な善とは常識や良識と言われた文化などに根付いた善である。

社会的な善は個人的な善と比較して、文化に根付くため他者から理解が容易になる。

 

その区分けで考えると、「いじめは善意の行動か?」という質問は「いじめは個人的な善に基づいた行動だが、社会的な善には基づいていない行動である」。

人は多くの行動をこの個人的な善、もしくは社会的な善のどちらかを採用している。

そして、多くの場合この2つは二律背反を起こす。個人的な善が社会的な善に抑圧されるのはよくある話である。人はこの善のバランスを取りながら生きている。

 

二律背反状態は苦しいため、その適応として個人的な善の一部は社会的な善に置換されていく。個人的な善が社会的な善にすべて置き換わると、聖人と言われたり、人間味がないと言われたりする。

 

 

昨今のインターネットの復活は個人的な善が複数あることを明らかにした。

結果、人は今まで「個人的な善vs社会的な善」という二律背反から「個人的な善vs個人的な善vs個人的な善vs ... ...vs社会的な善 」という他律背反の状態を経験するようになった。

 

結果、個人的な善or社会的な善のどちらかを採用せずに、全く第三者の個人的な善を採用するということが発生するようになった。

これはとても恐ろしい。

 

個人的な善はある種個人の欲求に基づくので、理解はされなくとも受け入れることが可能である。

社会的な善は個人を抑圧するが調和と周囲からの承認を得られる。

しかし、全く関係ない第三者の善は、個人的にも何が良いのか分からないが、周囲も承認してくれない。満足感も達成感もない善を基準に行動してしまう。

 

 

それは前提としている、「人は善意の元に行動する」が覆る瞬間かもしれない。