意見を採択するということ

最近、正しさというのはなく、人の数だけ正解と正義がある、という感覚は定着してきた感じがある。

 

とはいえ、自分は正しいと信じることをする他なく、多くの正しそうなものから一つを選択するしか無い。昨今なら外出するor自粛するも状況により、人により様々な判断がなされている。

 

ある前提を配置すると、最後の結論まで至るのはそんなに難しくない。難しいのはどの前提を採択するか、ということである。これには答えがない、前提を採択する理由を考えたとき、前提を採択した理由を採択する理由が必要になり無限後退が生じる。

私達はどこかで「無根拠に」理屈を採択しないとならない。

 

私は前提の採択の方針をある程度決めている。まず、ここで言う「前提」とはある決定を成すための情報である。そして、その情報は他者(個人/機関)であるとする。

つまり、自分以外の他者がもたらした複数の情報から、どれかを採択して意思決定をするという場合のどの他者の情報を信用して採用するのか、という問題を想定している。

 

採択しようと思うのは以下の場合である。

  • 情報が成立する前提が明示されている、特に成立しない条件について考慮されていること
  • その人が間違っていたり、ウソをついていた場合を想像し、その際に諦めがつくこと

大体この2つである。

この考えはハーバーマスのコミュニケーション的理性に少し影響を受けている。

ハーバーマスは「正しい意見」として3要素をあげている。

  • 事実に基づいて話していること(事実性)
  • 事実から結論への論理が破綻していないこと(論理性)
  • 発言者がその意見を信じていること(誠実性)

 

ハーバーマスの意見は少し抽象的なので自分の感覚に捨象すると、事実性と論理性が合算され、誠実性はより自分の主体を中心とした味方に変化する。

大体こういうふうに勝手に捨象すると、正しさは薄れるが使いやすさとは正しさから離れた位置に存在する気がしている。