正義がない

30歳になって、昔のような盲目さやわかりやすい正義のようなものが自分から失われた感覚がある。

 

様々な一言申したくなる自称があると、素朴な反応が最初に浮かび、その素朴な反応を別の側面から捉えた反対が浮かび、双方が状況によって決定するな、という理解をして結局人それぞれだよね、という虚無なワードを考えて終わる。

 

コロナの中は様々な人が様々なことを言っていた。皆自粛しろと言ったり、経済活動自粛に対する批判だったり。自分としてはどちらでも良いし、言われた通りにやるとおりだった。

それは自粛が発生しても、極端に収入が減るような仕事ではないし、仮に仕事が無くなっても別の仕事がすぐ見つかるだろうし、別の仕事が見つからなくても1年以上のんびり暮らす貯金もある。

 

結局、個人レベルではどうでもいい他人事に過ぎない。

じゃあ全体としてはどうなんだろう、というところでは「わからない」になる。基本的に分からないことは黙して語らない。この態度自体が他人任せの無責任な態度と批判されうるが、何も言わないことで批判されたことは人生でほとんど無いので、皆話さない人にはそんなに興味がないのだろう。

 

結局、色々な意見のどれにも与することもできず、自分なりの意見を持つこともできず。どっちもどっちだねーという気持ちになりながら漂っている。

 

 

この態度は少し仕事に過適応し過ぎたのかもしれない。仕事は結局いろいろなことを言っている人たちの間で全員がそこそこ納得する落とし所を見つけ、やっていくもんだと思っている。「自分なりの」という主張をする人がいるが、もしそういうものがあったら起業をする。そういうのがないので、他者の目標の成就に協力して、サラリーを頂いているのである。

 

最近の流行りはネオリベ的自己責任論らしい。

自己責任と自己研鑽、全く素晴らしい、良いことだと思う。努力はある程度報われるし、努力自体はそこそこ楽しい。ただ、この努力自体がそこそこ楽しいという感覚こそがそんなに普遍的ではないことが問題なのだろう。

自己責任論、多くの人は他者に向けることしかできないのだろうか。あいつは自分のやるべきことをやっていない、と。

そして、うまく行かなかった人はその目を恐れるのではないか。「「あいつが悪いのは自己責任だ」と思われたらどうしよう」と。

 

 

 

自己責任論が好きな人って、自分が簡単にできることをできない人を結構見たことあるような気がしていて。それを見た上で、「すべてのことを人が同等にできるはず」は流石に現実を見て為さすぎるような。それは結局「自分が簡単にできることをできない無能なやつらに、足を引っ張られているな」という他責的な自己責任の反対の世界からの呼び声によるものなのではないか、と穿った目で見てしまいます。

 

こういうことを考えてしまうので、自己責任という主張をした瞬間に生じる他責的なパラドックスっぽい何かが見えてしまって、強く主張する気が失せてしまう。

 

それはただ正しくありたい、という意味のない欲求で、この虚無をうまく乗りこなし、やり過ごしていくことが最も格好いいのかも。