ポテトサラダの話について思うこと

母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ 

 

に対する批判を眺める機会があったが、ポテトサラダの作る手間や難易度という問題に還元されていてモヤモヤした気持ちになった。

 

 

こういうのは最終的にどういう点を議論したら建設的になりそうか、という想像が必要ではないか。

「良い母親像に必要なことはなにか?」という話をしたいのに、結局皆ポテトサラダの大変さの話しかしていない。
仮に、

母親なら子供の人生を真剣に考えたらどうだ 

 と言われたとする。これは比較的まともな意見と受け取られるだろう。

これに対して、「他者の人生を真面目に考えるのは大変なんだ、この男はその大変さが分かっていない」という批判は適切ではないだろう。

つまり指摘した対象の難易度は、指摘の妥当性とは関係がなく、むしろ本来行いたい「良い母親像」というものの議論を端に追いやってしまう、慎むべき行為のように感じるのである。