出自というのを初めて考える

最近影響を受けた思想として、「自分の能力・結果は努力のような生まれたあとに身につけられるものもあるが、より支配的なのは生まれ・環境・階級など選択できないものである」という考え方である。

 

インターネットを見ていると、比較的「能力・結果は後天的に変更可能である」という自己責任論に近いものをよく見る。自分も基本的に自分に対してはこれを採用している。それは、現行の資本主義やホワイトカラー的能力が重視される社会においては、比較的適応可能なものを(おそらく先天的に)獲得しているので、多少困難なことがあっても自己責任論を適用したほうがやりやすいという都合による。

ただ、例えば社会のルールが大きく異なり、「多く食べられ、太ることに価値がある」など変化したとしよう。そうすると、自分はかなり厳しい立ち位置に立たされる。自分は比較的痩せ型で体重も10年以上変化していない。その世界において、自己責任論はかなり厳しい。もちろんある程度の努力で改善可能だが、それでやっと平均にいけるかどうかだろう。

この2つの世界の差は脳と胃のどちらの器官が重要視されるという差異しかない。

 

ただ後者の世界は起こり得ない、想像が難しいという反論が予想される。それは脳と胃では脳が優先されるという前提が導入される。このある種脳への偏重が人間を人間たらしめているとすると、いうのは確かにそのとおりな気がする。

ただここで主張したいのは、脳と胃で脳が優先されることの違和感ではなく。脳が相対的に有利な能力と胃が相対的な有利な能力を持つことは事前に選択が難しく、先天的な影響を受けざるを得ない、という点である。

 

なので、より正義と平等を考えると、現在は脳が発達している人に有利な社会となっているので、そこに対しての課税などでバランスを取るなどが考えられる。ただあまり同意される解決策ではないように思える。

それは自己責任論が強まっているという点と、適者生存などの文脈や、そもそもそのルールを作るのは比較的優位な人である、など色々な影響で棄却されそうな気がする。

直感的には成立し無さそうというくらいで、正直なぜそれが成立しないのかはあまり良く分かっていない。

 

 

今考えたように、能力は先天的に決まるという前提で、今まで自分が一体どういう立場の上で生きているのかあまり考えたことはなかった。自分のことを現代社会によくいるサラリーマンの息子という程度の自己認識だった。ただ先日実家に帰った際、母親から祖父母の話を聞いて、多少の特殊性を感じた。正確には、母は特殊な状況であるという認識をしていた。

 

うちの祖父は自分が10歳くらいの頃に自死をしている。ある日、失踪し海の中から車と共に見つかった。事故の可能性もあるが、失踪前の様子などから自死の可能性がかなり高い、というのが周囲の理解である。

祖父は長崎出身で、原爆を体験している。ただ昔から原爆についての話題が我が家やその実家で行われたことはほとんどない。長崎に戻った際に、8月に黙祷が行われるときに思い出される程度だ。

祖父の状況を軽く調べたが、当時10代半ばで学校に通っていたが原爆のときにほとんどの同級生を失っている。祖父はたまたま難を逃れたらしく、その後同級生を探しに廃墟を探した際に被爆したらしい。直接被爆者にあたる。

 

なので、自分は被爆者三世という立場になる。

では、その被爆者三世であるということがなにか自分に影響を与えているかと言うと、今のところ自覚的にはなにもない。

遺伝による健康面での問題は統計的に問題なさそう、という調査を見た。実際自分は健康である。従兄弟などには相貌失認など明確に問題を抱えているものもいるが、有意に問題があると認識するレベルではないと思っている。

そもそも祖父も特に健康面で問題はなかったように見える。原爆被害によるPTSDが祖父あったのか、無かったのかは当時の私からは察することはできなかった。

 

全体的に生活の中心を長崎で送っていない。分かりやすい問題も認識できない。この点で、被爆者三世という名前は自分のアイデンティティに全く根付いていない。

自分語りは好きだが、この経緯は特に誰かに話した記憶もない。

 

ただ、最近は何もないから何もないというほど世界がシンプルではないことも少しずつ分かってきた。

人の世界認識は事実であろうとなかろうと人に影響を与える。

母親と会話したが母親はそこによる世界への影響を見出していた。我が家で原爆というワードが出ず、自分のアイデンティティに根付かなかったのも、あえて出さなかったという意図を感じられた。

何かを隠すことは、それ自体が意味を持ってしまうのではないか、と考えている。

 

 

その意味がどんな影響を与えているのかは今はわからない。