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生きるためのメモリ領域

仕事で少し行き詰まった。設計書を眺め、ソースコードを眺め、デバッグコードを走らせてみる。「プログラムは書いた通りにしか動かない」偉い人が言っていた。確かにその通りだと思うが、その言葉は何の慰めにもならない。一通り現在のレイヤーで調べられることは調べ終え、このままだとフレームワークなどもう少し低次のレイヤーまで調べに行かないとならないか、と嘆息をついたところで、歌が流れ出した。昔一斉を風靡した歌手の名曲らしい、生憎私は知らない。この曲は今業務時間の終了を告げる音楽となっている。私はカバンを持ち、周囲にお疲れ様ですと声をかけ職場を後にした。

頭には煙が詰まっているようで、行き詰まった箇所をあーでもないこうでもないと燻し続けている。電車に乗っても本を開くことができない。頭は文字を理解せず、目は単語を追うことができない。私はこの感覚はとてもまずいものだと知っていた。 乗り換え駅に付き、電車を降りた。別の路線に向かう人の流れをはずれ、宝くじ売り場の隣に立つ。宝くじ売り場の近くでは店員が買えば3億円当たるかもしれないよ、と流れに向かって呼びかけている。 私はポケットから緑色の耳栓を取り出す。シリコンでできたそれは力をかけると形が変わり、じわじわと元の形状へと戻る。私は細長く潰し、耳に突っ込んだ。一瞬鼓膜の付近の気圧が代わり、耳がツーンとなる。そして、じわじわと少しずつ私と世界を繋ぐチャネルが塞がっていくのを感じる。そして私は目を閉じて深く息を吸う。

頭の中はまだザワザワと音を立てている。私はただ自分の息を吸う音と鼓動の数だけに注目する。聞こえない耳で静かな世界を聞き取ろうとする。

ときどき、私はこうしている。考え事が膨らみ制御できなくなると、頭の中の生きるために利用しているメモリ領域を侵食されていく。だから私はただ生きるために必要な作業以外のすべてを忘れることにした。耳をふさぎ、目を塞ぎ、すべての情報を遮断し、ただ生きるための作業だけに集中する。段々と私は生きる方法を取り戻していく。息を吸って、息を吐く。そして、少しずつ、その作業を脳内のバックグラウンドに移動させていく。不調なく活動していることを確認し、目を開き、耳栓を外す。宝くじ売り場の店員は3億円が当たるかもしれないと言っている。

その場を離れ、駅のホームへと歩きだす。駅のホームでは電車を待っている人たちが並んでいる。その後ろに並び、本を開く。今度はちゃんと読むことができた。