好きなこととできること

世の人に漏れず、毎日を苦しみながら生き抜いている。

 

大体の苦しみの原因は仕事だ。逃げても良いが、逃げ切れるものではないだろう。

この苦しみの原因は好みと能力の不均衡にあると思っている。

 

自分としては様々な問題を圧倒的な能力やスキルによって一刀両断に解決したいという欲望を持っている。専門性を存分に活かせたらと思っている。例えば、自分の場合はプログラマーという職種なので、それを存分に活かしたい。

 

一方、自分は昔からプログラミングが好きだったわけでもなく、情報系の大学に行ってたものの大学ではカードゲームで遊び散らかしているうちに終了し、転職に伴いとりあえずで身に付けたレベルのプログラミング技術しかない、という現実がある。

 

自然体として娯楽のようにプログラミングをする存在とは程遠く、それだけの能力は自分にはないし、今後も身につけることは若干諦めてもいる。

 

一方、多分普通の人よりボードゲームやカードゲームで遊んだ時間は長い。

ボードゲームやカードゲームを好きでやってきたことによって身についた能力は説明書を読み、ゲーム中に登場する概念が実態の操作として何をしているかを把握し、他者とその概念を共に扱うという点である。

また、ボードゲームなどのインストもよく行うため、それを周囲に説明し理解を促すことも添えて良いだろう。

要するにルールの決まったごっこ遊びに長けているわけだ。

 

しかも、それも得意というよりは自然でやっていて苦ではないというレベル感だ。

実際カードゲームにおいてもトップを取ったわけでもないし、長く遊んだな、くらいの感想しか無い。

 

結局自分のやってきた世界はどうしても周囲との共同が前提となる。

一人でひらめき、解決しというのは憧れではあるものの、要素の一部分でしかない。

それよりは、仕事というごっこ遊びで各操作がどういう意味や役割を果たしているという点を理解し、そこに対して適切に振る舞うという形でうまくやっていくのが一番良いのだろう。

 

このある種の諦めから、苦しみの質自体は変化した。

出自というのを初めて考える

最近影響を受けた思想として、「自分の能力・結果は努力のような生まれたあとに身につけられるものもあるが、より支配的なのは生まれ・環境・階級など選択できないものである」という考え方である。

 

インターネットを見ていると、比較的「能力・結果は後天的に変更可能である」という自己責任論に近いものをよく見る。自分も基本的に自分に対してはこれを採用している。それは、現行の資本主義やホワイトカラー的能力が重視される社会においては、比較的適応可能なものを(おそらく先天的に)獲得しているので、多少困難なことがあっても自己責任論を適用したほうがやりやすいという都合による。

ただ、例えば社会のルールが大きく異なり、「多く食べられ、太ることに価値がある」など変化したとしよう。そうすると、自分はかなり厳しい立ち位置に立たされる。自分は比較的痩せ型で体重も10年以上変化していない。その世界において、自己責任論はかなり厳しい。もちろんある程度の努力で改善可能だが、それでやっと平均にいけるかどうかだろう。

この2つの世界の差は脳と胃のどちらの器官が重要視されるという差異しかない。

 

ただ後者の世界は起こり得ない、想像が難しいという反論が予想される。それは脳と胃では脳が優先されるという前提が導入される。このある種脳への偏重が人間を人間たらしめているとすると、いうのは確かにそのとおりな気がする。

ただここで主張したいのは、脳と胃で脳が優先されることの違和感ではなく。脳が相対的に有利な能力と胃が相対的な有利な能力を持つことは事前に選択が難しく、先天的な影響を受けざるを得ない、という点である。

 

なので、より正義と平等を考えると、現在は脳が発達している人に有利な社会となっているので、そこに対しての課税などでバランスを取るなどが考えられる。ただあまり同意される解決策ではないように思える。

それは自己責任論が強まっているという点と、適者生存などの文脈や、そもそもそのルールを作るのは比較的優位な人である、など色々な影響で棄却されそうな気がする。

直感的には成立し無さそうというくらいで、正直なぜそれが成立しないのかはあまり良く分かっていない。

 

 

今考えたように、能力は先天的に決まるという前提で、今まで自分が一体どういう立場の上で生きているのかあまり考えたことはなかった。自分のことを現代社会によくいるサラリーマンの息子という程度の自己認識だった。ただ先日実家に帰った際、母親から祖父母の話を聞いて、多少の特殊性を感じた。正確には、母は特殊な状況であるという認識をしていた。

 

うちの祖父は自分が10歳くらいの頃に自死をしている。ある日、失踪し海の中から車と共に見つかった。事故の可能性もあるが、失踪前の様子などから自死の可能性がかなり高い、というのが周囲の理解である。

祖父は長崎出身で、原爆を体験している。ただ昔から原爆についての話題が我が家やその実家で行われたことはほとんどない。長崎に戻った際に、8月に黙祷が行われるときに思い出される程度だ。

祖父の状況を軽く調べたが、当時10代半ばで学校に通っていたが原爆のときにほとんどの同級生を失っている。祖父はたまたま難を逃れたらしく、その後同級生を探しに廃墟を探した際に被爆したらしい。直接被爆者にあたる。

 

なので、自分は被爆者三世という立場になる。

では、その被爆者三世であるということがなにか自分に影響を与えているかと言うと、今のところ自覚的にはなにもない。

遺伝による健康面での問題は統計的に問題なさそう、という調査を見た。実際自分は健康である。従兄弟などには相貌失認など明確に問題を抱えているものもいるが、有意に問題があると認識するレベルではないと思っている。

そもそも祖父も特に健康面で問題はなかったように見える。原爆被害によるPTSDが祖父あったのか、無かったのかは当時の私からは察することはできなかった。

 

全体的に生活の中心を長崎で送っていない。分かりやすい問題も認識できない。この点で、被爆者三世という名前は自分のアイデンティティに全く根付いていない。

自分語りは好きだが、この経緯は特に誰かに話した記憶もない。

 

ただ、最近は何もないから何もないというほど世界がシンプルではないことも少しずつ分かってきた。

人の世界認識は事実であろうとなかろうと人に影響を与える。

母親と会話したが母親はそこによる世界への影響を見出していた。我が家で原爆というワードが出ず、自分のアイデンティティに根付かなかったのも、あえて出さなかったという意図を感じられた。

何かを隠すことは、それ自体が意味を持ってしまうのではないか、と考えている。

 

 

その意味がどんな影響を与えているのかは今はわからない。

BEASTERS。コントロールできるものとできないもの。

 

BEASTARS 1 (少年チャンピオン・コミックス)
 

 BEASTERSが面白い。

肉食獣と草食獣を含んだ人種(種別)問題をはらんだ世界で、ある個人が自分の感情が本能依存(食欲)なのか理性的なもの(愛情)なのかという問いかけをしていく話。

 

 

「本能」が自分に所属するものなのか?という問いは面白いと思う。

 

今は「自分に所属するコントロール不可能なもの」と位置づけるのが一番良さそうと思っている。

存在しないかのように扱うのは一貫性を大事にしすぎて、論理として破綻しているものを信奉してしまう恐れがある。

かといって、本能に従い過ぎるのもあまりに子供っぽすぎて他者とうまくやる上でハードルになると思う。

 

アンコントローラブルなものが所属している自分とどう上手に付き合っていくかというのは人生を生きる上で自分の大きなテーマでもある。

 

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書いていて思った。

 

「コントロールできるもの」が自分であり、「コントロールできないもの」が他者である。

この自己啓発にもよくある内容は納得感があった。

つまり、本能は「コントロールできないものであり」他者である。

 

ロールズの正義論関連の話を読んでいて、「あなたが獲得した地位・また能力も先天的な環境によって獲得したものである」という前提。

これは非常に納得感があり、正論だと思った。

 

そのとき、自分の地位・能力・立場ですら「コントロールできないもの」となり、つまり他者となった。

 

後天的に獲得した様々なものですら他者となったとき、真の自分とはむしろ「コントロールできない本能」なのではないか。

 

この2つの話の矛盾を超える立場として「本能をコントロールしたい」という欲求につながる。

 

ここに別の知識としてプロジェクトマネジメントの知識が結びつく。

「リスクコントロール」という考えがある。「リスク」とはつまり予想外のこと、予想外のことをコントロールするという難しい問題がプロジェクト管理にはある。

ここでは無くすということを目的とせず、影響範囲を把握し、分散を抑え、影響範囲を把握するということがコントロールであるという話になる。

 

これを本能に適応することでうまく「本能」というコントロール不可能なものをもう少し大きなレイヤで見ることでコントロール可能なものとして捉える。それがいわゆる「自己」を獲得することに繋がると考えている。

 

愚痴について思ったこと

愚痴の言い方について考えている。

愚痴には聞いていて建設的な愚痴と、そうではない愚痴がある。

 

建設的について定義する。

愚痴は当人が何かの問題に直面し、その解決が簡単に困難で途方に暮れた際に発生する。その問題の解決に寄与、もしくは問題自体の無化することが建設的であると考える。

 

建設的な愚痴の前に、そうではないと感じる愚痴を考える。

 

過度な一般化がされている

本人が直面した問題はスタートは個別具体の話なのに、愚痴が出るタイミングではそれが一般化された情報になっている。

例えば、女性と議論のすれ違いで揉めた際に、「女ってなんで感情で物を言うんですかね」ということ。

議論のすれ違いは立脚する前提の差異を明らかにするが、当人の中では「女は感情で物を言うため議論が成立しない」という新しい前提が勝手に置かれている。

一般化は傾向を見出すには便利だが、分析の最初に導入するには不便である。

 

続く...

何のための自由なのか

自由が目的化されている気がする。

 

自由が大事だと叫ばれ、束縛が悪だと言われる。

その自由の先には子どもっぽい欲求の充足しか見えない。

「自由」の先に「望んだことが、望んだ通りに達成される」以上のものを見ることができない。そこには一切の他者もなく、ただの「欲望」のみがある。

 

「欲望のための」自由がなぜそんなに良いとされるのか分からない。

 

ポテトサラダの話について思うこと

母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ 

 

に対する批判を眺める機会があったが、ポテトサラダの作る手間や難易度という問題に還元されていてモヤモヤした気持ちになった。

 

 

こういうのは最終的にどういう点を議論したら建設的になりそうか、という想像が必要ではないか。

「良い母親像に必要なことはなにか?」という話をしたいのに、結局皆ポテトサラダの大変さの話しかしていない。
仮に、

母親なら子供の人生を真剣に考えたらどうだ 

 と言われたとする。これは比較的まともな意見と受け取られるだろう。

これに対して、「他者の人生を真面目に考えるのは大変なんだ、この男はその大変さが分かっていない」という批判は適切ではないだろう。

つまり指摘した対象の難易度は、指摘の妥当性とは関係がなく、むしろ本来行いたい「良い母親像」というものの議論を端に追いやってしまう、慎むべき行為のように感じるのである。

 

道徳のニューラルネットワークというアイデア

倫理学の本を読んでいた。

道徳は全然答えが出ておらず、決定的合意も発生しなそうという印象を持った。

 

 

道徳は主観的なものな気がするし、客観的なもののような気もする。

この主観性と客観性が同時に解決されるようなアイデアは無いかなと思ったが、ふとニューラルネットワーク構造が思いついた。

 

この世には道徳を出力するための大きなニューラルネットワークが存在し、人はそのニューラルネットワークの一つのニューロンとして存在しているというモデルだ。

私達は道徳を表現するための一つの役割を果たすが、最終的な道徳と呼ばれるものは個のニューロンの発火の集合なので近づくが同じにはならない。

この主観的な発火と総合結果としての客観的なものというものの共存するということで、道徳の主観性と客観性を説明できるような。

また脳の構造とのフラクタル性は何となく妥当性がありそうな気がする。

 

このとき、個の道徳決定はどうなされるかというと、ニューラルネットワークで決定された大きな道徳によってなされる。個は現実との不整合によって少しずつパラメータが調整されていく。そして老化されたニューロンが廃棄されたタイミングで、全体の道徳が大きく変更されたりもする。

 

この場合、「良い生き方」とは「ニューロンの果たすべき役割を果たすこと」、つまり周囲とネットワークを作り、出来事に正しく反応することなのかな、と思っている。自動での反応や周囲のインプットと無関係に反応すると良く無さそう。

この辺で、隣人愛などの概念など既存の道徳との関係性も論じられそう。

 

脳科学機械学習もそこまで詳しくないので、このアイデアがどのくらい妥当かを気が向いてみたときに調べてみようかと思う。