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完全との向き合い方

心を言葉に射影する話。

ただ単純に日々を生きるというだけで、私は様々なことを考える。考えるという行為をもう少しわかりやすい言葉にすると、抽象的なものをもう少し具体的なものに分割する作業だと思っている。 例えば、今日の晩御飯をどうしようかな、という考えを、肉じゃがにしようかなと置き換えるように。

ただ、それでも考えきれずに、具体化されないまま心のなかに蓄積されていくものが沢山ある。 何故、人は生きるのか、幸福とは何か、私はどう日々を送るべきなのか、という風に。

最近意識して、考えた結果の生成物が具体的な言葉になるようにしている。人間は抽象的なものを抽象的に扱えるほど器用ではなく、すぐ頭のなかから消えてしまう。だから、自分が扱える手頃なものにするべきだ、それが言葉だと思っている。 言葉で定義することで人は認識ができる。昨今の漠然とした不安に「承認欲求」という言葉が当てられることで、自分の中の欲求を認識できたように。

だから、私は多くのもやもやとした抽象的なことを具体的に言葉に起こしたいな、と思っている。

一方、それは不完全な営みだと考える人もいる。

抽象的であるということは、より美しく完璧であるということだ。 甘いより、美味しいの方がより抽象的で、完璧である。

ショートケーキを食べて、美味しい、という感覚があったとき、それを必死に言葉にする。甘くて、イチゴが乗っていて、スポンジはふわふわしていて、と。では、どこまで頑張ったらそれは最初の美味しいに辿り着けるのか。 言葉というのは、大きな籠に入れていく石のようなものだ。どれだけキッチリつめていっても、僅かに隙間が生まれてしまう。どこまで努力しても、最初の籠にたどり着けない。そして、その隙間こそが美味しさの本質だろう。 言葉にするという行為は、本当に大事なものを削ぎ落としてしまう危険性がある。

だから、無理に言葉にするという行為はしないほうが良い。

ただ、私はこう考える。心の完全な把握を求め、言葉に落としていく。そして、埋まらない溝に絶望する。この絶望こそが重要なのではないか。

元々私は不完全な存在だ。思い通りに動けず、理想からは程遠い。何もなさず、川底の無数の石のように、ただ大きな水のうねりに流されるだけの存在だ。 その存在が完全生と向き合うには、完全なものと不完全なものの絶壁と向き合うことしかないような気がする。

今日の日記のように。