インフラとなる

このブログを書くときもいつもイライラやモヤモヤや苛立ちとともに書くことにしている。

基本的に人と話すときはなるべく愛想よく、辛いこと、苛立つことも全部楽しそうに話すことにしている。まぁ実際自分の感情について話すことは楽しいので、楽しそうにしていることは半分あたっている。人に話すときは自分というものは自分を離れ、非常に他人事のように感じる。その瞬間には苛立っている自分とは他者性のある批評の対象にしかならない。

ただここに書くときは、苛立ちやもやもやはすべて自分のものであり、自分の向き合う対象である。人と話すときに苛立ちやもやもやを楽しそうに話せるのは一重に努力の賜物であり、人に苛立ちをぶつけることは良くないという倫理観のもとの行動である。

 

この前31歳になったが、どんどん年齢を重ねるうちにこのもやもやを自己解消する術が必要になってくる。最近特に意識するが、世界や他者はどんどん自分への関心を失っていくようだ。ある程度機能することが保証され、定期的なメンテナンスが必要なく、自己補修が可能であることが価値になっていく。価値を発揮すればするほど、自分はインフラとなり、世界からの関心は薄れていく。期待されるのは変化ではなく安定である。

 

この世界からの期待と自分の内面性のギャップが存在する。自分はまだ変化していく存在であるという自己認識がある。このギャップ自体は少しのストレスを生む。

そしてドンドンと本当の若者が増えていく。彼らは脆弱で変化し、注意深く監視しなければならない。その監視の役割は自分が担うことになる。

 

自分はその構図に嘆き、絶望しそうになるが、このストレスを乗り越える方法を模索するのみである。