自分を特別だと思う方法について考えている。
最近、色々な人と話をしていて、気づいたことがあった。
自分は自分を凡庸な人間だと思っているが、本心はそう思っていないので、自分を特別だと思うための方法を探している。
すでにこの文章がおかしいが、その原因は何となくわかっていて、文章を書いている際は実際にタイピングしている自分と、それを観測している自分の両方の立場が混在してしまう。
自分が文章が苦手だなと思う要素の一つである。
話を戻す。
自分を特別だと思うための方法はどうすれば良いのか。大方針として特別ではない理由を潰していっている。
間違いなく自分を特別だと確信している自分がここにいる。
では、その心はどこからくるのか、もしかしたら自分は特別ではないのかもしれないという自信の無さの裏返しとして表出されている気がする。
そのため、自分が特別であるという自信を持った人になろうとした。
自信のある人とは、「他者の批判や指摘に対して、感情をあらわにせず受け止める人」な気がする。
そのため、他者の批判や指摘に対して感情をあらわにせず受け止める人になろうとした。
他者の批判や指摘を感情をあらわにせずに受け止めていたとしても、それを馬耳東風に聞き流していたら、それは「自分は批判を聞いているので自信がある」という免罪符を手に入れたいだけで本質的には自信の無さの裏返しに過ぎないのではないか。
そのため、「他者の批判や指摘を聞き入れ、批判の内容をできる限り正しく理解し、それを改善し、指摘者本人に理解できる変化を為した人」になろうとした。
この辺が今の自分の限界である。
「他者の批判や指摘を聞き入れ、批判の内容をできる限り正しく理解し、それを改善し、指摘者本人に理解できる変化を為した人」にも自分が特別であるという自信がないことの裏返しである側面を見いだせていない。
というわけで、今のところはここが大方針になっている。
ここで少し話題を変える。
面白いのは「他者の意見に惑わされ、ころころと態度を変える人」も典型的な自信のない人として理解される点である。
先の自信を持つためのプロセスは今のところは効果的に機能している気がする。
外部から観測される行動は同じようでも、そこに至る思考の深度が異なれば別の結果になっている。
では、本質的に重要なのは思考の深度のみであり、具体的な行動自体には何の意味もないのではないか。
この世で起こること全てに意味がないような気がしてしまうのである。