安易に言われる多様性に納得できない。

「多様性が必要だと思うんですよ」

 

その言葉に私は違和感を覚える。

多様性は必ず必要なのだろうか。

多様性は無批判に肯定されている。

 

多様性はなぜ肯定されるのか。多様性の対極である、選民思想的なものが批判的な対象だからではないだろうか。

選民思想が批判されたからといって、それは多様性が素晴らしいものになるわけではない。

 

私が批判したいのは同質性が高い場所に、「多様性が素晴らしい」という言葉のもとに持ち込まれる多様性である。

 

多様性がある場所には多様な価値観が存在する。

これは事実である。多様な価値観がるとはどういうことか、他者と同じコンテキストで会話することができない、ということが意味する。

今まで同質性が高く、ハイコンテキストな会話をなしていたところに、かなりローコンテキストな会話が要求されるようになる。

しかし、誰しもが自分のコンテキストのレベルを調整できるわけではない。

結果、「あいつは言葉が通じない」と断絶が起こる。断絶はたまに悲劇として結実する。

 

「多様性のある社会」とは何だろうか。

多様性とは他者に対して強い無関心を期待される社会じゃないだろうか。

「言葉が通じない人たちがいるが、彼らは彼らだけの言葉を喋っている」ということを受け入れた社会じゃないだろうか。

そんな

 

何となく言われる多様性は「皆仲良く違いを理解しましょう」というお題目に行われているような気がする。それは悲劇を生む。

 

「皆違うことを考えているので、他者の思想や言葉に無関心になりましょう。あなたの世界に対象を写像してはいけません」

これが正しい多様性のように感じる。

昔は発達障害がいなかったのではないか

最近発達障害と診断される人が増えているとか。

これは言葉が独り歩きして、「もしかして私もそうだったのかも」みたいな人が増えたのかもしれない。昔はそうだった人も診断されることなく、なんか変なやつで抹消されたのかもしれない。

 

別の考えとしては、本当に昔はとても数が少なかったのかもしれない。

自分が大学生くらいから合理性という概念が世に広く浸透した。今までずっとあった狭い関係性の中での最適な戦略が実は最善ではないという可能性が提示されるようになった。

これに気づく人もいるし、気づかない人もいた。気づくかどうかは完全に環境要因の運だった。

 

会社という仕組みはその矛盾した構造をずっと解消できずにいた。会社という集団には文化や社風という儀礼・礼儀作法がずっとある。ただ会社というのは営利のために合理的選択を求め続けることを期待されている。

これはミクロな部分ではよく口に出る「飲み会とかいまどき古いよね」

でもマクロな部分では全く解決されないし、それはそれで一つの合理性だよねという形で回収される。

 

この非合理な社会というものと合理性を同時に達成するのってとてもむずかしい。

そして誰しもがこの矛盾に無自覚である。

 

ブラック企業がちゃんと叩かれるようになった、ということを良いことかのように言っている人がいる。それは確かに良いことかもしれないが、それは会社という存在の矛盾に対しては無自覚なままである。

ブラック企業は合理性を排除して、社会というものを突き詰めたものである。それによりこの矛盾を解消している。

最近のグローバルな企業は逆に合理性のみに特化させている。

ただ多くの企業は社会と合理という矛盾を孕んだまんま動き続けている。

 

この矛盾に気づいてしまい、バランスを取ることができず合理性のみで行動をするようになった人が発達障害と呼ばれるようになったのかもしれない。

合理性にどこまで準拠できるかどうかは能力の問題になるので、発達障害な人が合理的と呼ぶわけではないが、あくまで決定基準の話。

 

昔は発達障害がなかったというのは会社が社会と合理性という矛盾を抱えてなかったら少なかったのではないか。

 

想像のお話です。

 

感情の取り扱い方

最近人生相談をされる。「どうしたら他人を気にしないで済むようになるか」。

私は自分なりの考えを述べる。自分の心と向き合って自分が本当は何を考えて、何を望んでいるかについて理解しろと。その結果本質とは異なると感じたものは避けていくと、自分の感情に忠実にあれ、と話した。

自分もまだまだ発展途上の身だが目指すべき道はそこだと思っている。

 

隣で聞いていた別の人から言われた。

「それはあまり参考にならないと思う」

なぜですかと尋ねた。

「そもそも君、恐怖とか快楽みたいな感情をかなり感じにくいタイプじゃん。一般的な感情の多くは確かに君の言う通りにある程度コントロールできると思うけど、恐怖みたいな強い感情はもう反射みたいなもんだから無理にコントロールできるようにしても良いことないよ」

 

「感情も所詮電気信号や化学物質でコントロールできるものなわけで、その化学物質の量が少ない人が化学物質の量が多い人に対して言ってもそれは全くあてにならないし、むしろ有害だと思うよ。

確かに君の言う話はとても筋が通っているし、様々なことを合理的に判断できるようになるので現実世界ではとても有効だけど、それは所詮現実世界だけの話だしね。

逆に昔だったらその恐怖を感じにくいという性質はすぐ死んでしまってたんだろうし、とても運が良いね。」

 

続けて、相談者に向けて話した。

 

「この人は感情があんまりないので、感情を理性でエミュレートして理解しているタイプなので、この人の感情についての理論は目指してもあんまり実りはないし、多くのことを無価値化させるので有害だと思うよ。それよりもっとシンプルに今楽しいということに忠実になったほうが良いと思う。恐怖に突き動かされるのは確かに今は問題を起こしやすいので、どちらかというと楽しいということにより強く目を向けるべきだと思うな。」

 

いろいろな意見があって面白いなぁと思った。

 

 

生きる理由を見つけて、人に優しくなれそうな気がした。

前回の日記の話の続き。

 

一晩くらいツラツラと考えを垂れ流した。

たまたま色々な人と会話する機会に恵まれたので、そのことを相談した。

 

「女の子ってそういうもんだよ」という意見をたくさんもらった。女の子という汎化には違和感があるものの、特殊な事例ではないらしい。自分が初めて遭遇したから、ビックリしただけのようだ。

 

なんで、そんなことになってしまうのか考えた。

もしかして、これが分からないところが自分のアスペルガー基質なところかもしれないと思った。つまり彼女が特殊なのではなく、自分が特殊な可能性について考えた。

 

言葉にすると明確な線引があるように誤解する可能性があるが、便宜上、定型発達という言葉を用いる。

彼女は定型発達で、自分が非定型発達という世界を想像する。

 

彼女は自分の意図というものを持っていない。場の空気というものを敏感に感じ取れ、そこに対して最善の行動を容易に取れる。状況に応じて使う言葉を意識しない。状況に応じて意見が異なることに違和感を感じない。

行動が環境や空気、場というものから生成されることに違和感を持っていない。

 

自分は空気から何かを察することができない。そのため、現在がこのような空気で、あなたは今どんな考えを持っているから、このような行動をすることが適切である、という考え方をする。社会があり、自分があり、そこに対する役割を自覚的に想像し、能動的に振る舞う。

行動が環境や空気を理解し、適切に振る舞う。その時必ず行動規範としての自分が存在するため、矛盾した行動を取ることができない。

 

彼女には意図というものがないので、行動の意図を問われると混乱する。意図を聞かれることと、行動を否定することの区別をすることが難しい。その選択は自動的に選ばれていて、理由などないからだ。

行動の意図を問われたときに、否定された、受け入れられていないという解釈に繋がりがちである。

 

一方、自分は行動の意図を聞くことは相手への親密さの表れである。私はあなたがその行動をどのような意図によって行っているかを知りたい、あなたという人を心から理解したいと思っている。そうすることで、あなたを傷つけないですむし、あなたが喜ぶ行動をすることができるので。

 

ここでコミュニケーションの極端な断絶が発生する。

善意のために考えて行動したことそのものが相手には否定にしか受け取れない。

相手は驚いて悲しくなる。私は相手が驚いて悲しんだことが理解できずに、何故悲しんだのかと追い打ちをかける。相手は悲しんだことを理解されていないと感じる。

 

そして、先日のような破綻が生じる。

 

どうやら考えていることを話すことは良くないのかもしれないと思った。

 

 

そんな話を友達にした。

友達は言った、「あなたのせいで自分も自分が今何を考えているかを考える機会が増えた。けど、自分が何を考えているかについて考えないほうが幸せだったと思う」。

 

それを聞いて、自分が良いと思ってしていることが良くないかもしれないという事例に連続で遭遇したなと思った。

どうやら相手に自分が考えていることについて考えさせることは傷つけたり、不幸せにしたり良くないことらしい。

 

ソクラテスが昔若者に問答を仕掛けることで、青少年に悪影響を与えたという理由で死刑になったという話が思い浮かんだ。

自分はたまたま生きているだけで、環境によっては存在自体が罪人になりうるのだと思ったらとても面白くなって笑ってしまった。

 

じゃあ、考えていることを話すということをやめてみようじゃないかと思った。

 

そのとき、自分が考えていることを話すことをやめようと考えたことを話そうとしていると思った。人には言えないのでツイッターに呟こうとしたが、それも結局は誰かに伝えたいだけだなと思った。

一生口をつぐむ姿を想像した。

 

それは何だかとても嫌で受け入れられないと思った。

 

僕は考えたことを話したい。それが誰かを傷つけて不幸にしてしまうかもしれなくても、それをやめることはとてもできないと思った。

 

つまり自分は自分の快楽のためだけに、自分の考えていることを話しているわけだが、それはもうどうしようもなかった。

話したいのだ。どうしようもなく。

 

人生生きていても死んでいても大差はないような気がしていた。ただ死んだら考えていることを話すことができないと思ったら、生きている方が良いような気がした。

 

自分は他人を傷つける可能性を考慮しながらも、快楽を求めてしまう。でも仕方ないじゃないか、したいんだから、と初めて思った。

 

初めて生きている理由がわかったような気がした。

 

 

僕の快楽のために彼女を傷つけることは何だか申し訳ないような気がした。僕には他にもたくさん僕の考えを聞いてくれる人がいるのだから、僕は彼女に対して思ったことを言わなくても良いような気がした。

 

彼女を傷つけずに済む方法を前向きに考えられそうな気がした。

 

なんでそこまで無思慮に人を傷つけられるのか分からない

本当に苛ついている。

苛つきすぎていて、いつもだったらTwitterで適当に「つら・・・死にたい・・・」と醸し出すだけで終わることが、より具体的に他者の目を汚す形になってしまう。Twitterなど好きに使えという話もあるが、何となくできない。

だから特に誰にも知られていないこのブログに書く。

 

今日は後輩の女の子を泣かせた。

 

個別具体の事象は面倒なので省くが、僕は人の心はわからないという前提のもとに疑問を投げた。

 

「君はAさんが喜んでいるって言ったけど、Aさんがどう感じるかはAさんにしか分からなくないかな?」

 

その言葉にとても傷ついたらしい。自分のことを疑われたと。自分の言っていることをこの人は信じようとしてくれないと。

 

 

最初は、なるほどそういう感じ方もあるのか、と思って謝った。ごめん、と。「でも僕がそう思っているのは事実であって、思っていることを伝えることを僕は良いことだと思っているので、何か悪意があって発言したわけではなく、価値観が異なってしまっただけで許して欲しい」、と。

 

でも、私はこんなに傷ついていると言われた。そして、僕の過去の発言をいくつか拾い上げ、この発言もこの発言も私のことを全く思いやろうとしない無配慮な発言であると言った。

 

私は最近チームのリーダーになったのだが、そこに対しても、「このように無配慮な発言をする人がリーダーをやっていては会社がこれから大きくなる上で駄目だと思う。もっと発言には配慮し、気をつけて欲しい」と言われた。

 

そう言われて、そのときはなるほどそういうもんかと思った。

そういう考え方も確かにあるかもしれないと思った。

 

その場はなんとかあやまり、とりあえず解散した。

仕事が手につかないので、仕事は適当なところで切り上げて、銭湯に入った。

サウナにはいったり、水風呂に入ったりしながら言われたことについてグルグルと考え続けていた。

 

「どうやったら上手くやっていけるかな?」とずっと考えていた。言葉をそのまま受け取ってしまうくらい繊細な子だから、いろいろ言葉に配慮したり、様々な態度で示したりするのが良いかもしれない。

彼女の一挙手一投足に目を配り、適切に褒め、彼女が自慢したいことを的確に理解し、彼女が傷つきそうなことを察し、言葉を紡ぐのをやめたりすればよいのかもしれない。

 

いくつか達成できそうなこともあったし、結構努力がいりそうだなと思うことはあった。来週からはいくつか実践してみてもいいかもしれないと思った。

 

風呂をあがって、帰り道で具体的なことについて考えていた。

 

 

何となく、帰り道で足が止まった。

 

自分はものすごく怒っているな、と思った。

何故自分がここまで言われなきゃいけないのか分からなかった。

分かったふりをしているだけで、自分は分かっていないということがわかった。僕は何故自分がここまで言われなければならないのか分からなかった。

 

まず悪意はなかった。悪意あって困らせるために疑問を投げつけるということは可能だが、この場合はそうではなかった。「人同士は本当に何を考えているかわからない」という前提に立って、そこから生じる当然の疑問を投げつけただけだ。そこに悪意はない。

 

悪意がないから許されるわけではないという話もある。悪意はなくとも人を傷つけたという事実は許されないのかもしれない。それは一理ある。悪意がないことは免罪符にはならない。

確かにそうかもしれない、と多分その時は思ったが、今回の件にまでそれが本当に適用されるべきなのだろうか。

僕は人が何を考えているのか分からなくて苦労していて、色々な経験を経て苦難の上に「人同士は何を考えているかわからない、だからこそ様々な内部状態を伝えることでどうにかこうにか上手くやっていこう」と色々頑張ってやっているつもりだった。

 

自分も苦悩していて、どうにかしたいな、と思っていることについて確認を投げただけでこんなに責められなきゃいけないのか。傷ついている人は他人の悩んでいることを一切無視して、お前に能力がないから私は傷ついているんだぞと言われ、僕の苦悩は一切無視されなきゃいけないのか。お前が傷ついていることは俺を傷つけて良い理由になるのか。お前の苦悩の全てを俺が理解し、俺の苦悩は一切誰にも理解されない状態で良いと言い張るのか。

 

そんな世界に賛同することってそんなに必要なのだろうか。

 

そう思ってしまった。

 

僕は皆幸せになって欲しいと思っていたし、そのために自分のできる努力はできる範囲内でやろうと思っていたし、多少の損を被るのも致し方無いと思っていたし、余裕があるからこそその余裕は人に分け与えても良いと思っていた。

 

それを一切無視して、お前が悪いと言ってくるこの人を俺は救わないといけないのか。

 

なんでそんなことになってしまったんだ。

 

と思ったら足が止まった。

 

 

 

自分は善人でありたかったけど、それは許されないんだなと思った。

人を嫌いにならないでいようと誓ったけど、それができると思うことは傲慢さに過ぎないんだなと思った。

自分が抱えていた理想はなんて空虚で意味がないんだろうと思った。

 

なんだかもうとてつもなく悲しかった。

 

 

なんでそこまで無思慮に人を傷つけられるのか分からない。

 

言われたセリフだ。僕もそう思う。

 

 

自分を特別だと思う方法について考えている。

最近、色々な人と話をしていて、気づいたことがあった。

自分は自分を凡庸な人間だと思っているが、本心はそう思っていないので、自分を特別だと思うための方法を探している。

 

すでにこの文章がおかしいが、その原因は何となくわかっていて、文章を書いている際は実際にタイピングしている自分と、それを観測している自分の両方の立場が混在してしまう。

自分が文章が苦手だなと思う要素の一つである。

 

話を戻す。

 

自分を特別だと思うための方法はどうすれば良いのか。大方針として特別ではない理由を潰していっている。

 

間違いなく自分を特別だと確信している自分がここにいる。

 

では、その心はどこからくるのか、もしかしたら自分は特別ではないのかもしれないという自信の無さの裏返しとして表出されている気がする。

 

そのため、自分が特別であるという自信を持った人になろうとした。

 

自信のある人とは、「他者の批判や指摘に対して、感情をあらわにせず受け止める人」な気がする。

 

そのため、他者の批判や指摘に対して感情をあらわにせず受け止める人になろうとした。

 

他者の批判や指摘を感情をあらわにせずに受け止めていたとしても、それを馬耳東風に聞き流していたら、それは「自分は批判を聞いているので自信がある」という免罪符を手に入れたいだけで本質的には自信の無さの裏返しに過ぎないのではないか。

 

そのため、「他者の批判や指摘を聞き入れ、批判の内容をできる限り正しく理解し、それを改善し、指摘者本人に理解できる変化を為した人」になろうとした。

 

この辺が今の自分の限界である。

「他者の批判や指摘を聞き入れ、批判の内容をできる限り正しく理解し、それを改善し、指摘者本人に理解できる変化を為した人」にも自分が特別であるという自信がないことの裏返しである側面を見いだせていない。

 

というわけで、今のところはここが大方針になっている。

 

ここで少し話題を変える。

 

面白いのは「他者の意見に惑わされ、ころころと態度を変える人」も典型的な自信のない人として理解される点である。

 

先の自信を持つためのプロセスは今のところは効果的に機能している気がする。

外部から観測される行動は同じようでも、そこに至る思考の深度が異なれば別の結果になっている。

 

では、本質的に重要なのは思考の深度のみであり、具体的な行動自体には何の意味もないのではないか。

 

この世で起こること全てに意味がないような気がしてしまうのである。

自分について考えている

自分の定義について考えている。

 

例えば、私はボードゲームが好きなので、「ボードゲームが好きであること」を自分の定義としよう。

これが正しくないことは明らかだ。

私はボードゲームを嫌いになることもあるだろうし、疲れているなど条件によってはボードゲームをやりたくないこともある。

ボードゲームが好きであることは私の定義にならない。

 

これはボードゲームをその他に当てはめても、「好きであること」を「嫌いであること」など別の言葉に置き換えても定義にならない。この具体的な感情などを列挙することは限界がある。

 

次のアプローチとして、

「様々な条件(時間、環境、場所)をインプットすると、ボードゲームが好きという感情が発生すること」を私の定義ではないかと考える。

これは先程より近い気がする。

状況が変わればボードゲームが嫌いであることもあったりするし、好きであることも多い。そして状況的に好きなことが多いという意味では定義に近い。

 

ボードゲームが好きであることなどの具体的な感情をA、「様々な条件(situation)をインプットすると、ボードゲームが好きという感情が発生すること」をfとする、と以下のように書ける

 

f(situation) = A

 

大分自分に近くなった。

 

次に思うのは、fという考え方を抱くようになったことすら、様々な条件が重なったはずである。私が別の人生を歩んでいた場合、例えばボードゲームという存在すら認知できない場所に生まれた場合、同じ状況でもボードゲームを好きにならなかった可能性がある。これも様々なシチュエーションによって誕生しうる。

 

f'(situtation) = f

 

fという存在自体が、f'というメタ的なものによって生成されている。

 

(f'(situation))(situation) = A

 

が正しい構造となる。

 

より自分に近づいた気がする。

 

ここで次の疑問として、f'自体が特定の条件のもとに誕生した可能性がある。

というより、f'という存在を認めた時点でそれを生み出すf''というものの存在も認めねばならない。

 

(f''(situation))(situation)(situation) = A

 

ここで、この作業は無限に繰り返されることに気づく。

((......f'''''''....(situation).....)(situation) = A

 

つまり私とはf''''''''''''''''....(無限) ということになる。

 

 

この問題への理解はいくつか解釈の余地がある。

 

1) f'''''''はどこかで打ち切られ実はf''''''''''''''...'''''が真の自分であり、ここには一切の考慮が許されない

 

2) Aというものを定義した時点で何かが間違っている

 

3) 無限に後退し続ける構造こそが自分である

 

あたりまで考えて限界が来た。

直感的には今は3に近い。

 

そして、何を考えてもすべてはf'''''''''''''''''''''''を乗り越えられないのだ。