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2017/05/25:病院へ行った

日記へのモチベーションが変わって書けなくなったので、モチベーションに合わせた内容へ。

睡眠時間

22:19 - 6:37

出張で疲れていたので起きるのが遅い。

食事

  • 朝:なし
  • 昼:ココイチ(鶏肉カレー+サラダ)
  • 夜:炊き込みご飯+納豆

朝ダラダラして食べられず。

ランニング

9km / 39'52''

コースが同じ人がいたので同じペースで引っ張ってもらった。気持ち悪かろう。

出費

  • 交通費 ¥1150
  • ココイチ ¥870
  • 診療費 ¥1080
  • 漫画 ¥460 * 5

交通費って意外に重い

お勉強

Angular2

ある程度理解したので、Twitterクライアントでも作ってみるか〜と模索中。 Angular-cliJavaScriptライブラリ入れるのに四苦八苦してた。

調べたもの angularjs で Twitter クライアントを作成し AWS.S3 で動かす - Qiita angular-cliプロジェクトにJavaScriptライブラリを組み込む方法 - Qiita javascript - Angular2: import external js file into component - Stack Overflow

ポーカー

今日は触れず。

気になったもの

硝子ちゃん可愛い。(http://ir-roid.com/character/5201)

読んだもの

  • 湯上くんには友達がいない 6 - 11巻

    • 主人公が共感できるから好き
  • 惰性67パーセント 3巻

  • SOFT SKILLS

    • 20Pくらい。rebuild.fmでオススメされて面白そうだったため。
    • 意識高くなれそう

人との会話

  • 後輩H
    • 昨日は割と楽しかったって、良かったね。
  • 母親
    • 彼女には彼女なりの生きる道があり、そして挫折を味わったそうです。
    • 妹の話(後記)
    • 病院の結果の報告。別に何がやばいわけじゃない。

Facebook 150.04 +1.97

他メモ

  • 病院で不整脈持ちであることが判明。割とよくあるらしい、ふーん。
  • 今日3回電車乗り過ごしたから人としてやばいかも。13時までに着かないといけないと知らずに普通に遅刻扱いへ。
  • 普段つけてる日記を転用する感じにはなっている。
  • イライラしていた内容が少し進展してホッとしている。
  • 社内プロコンについて考え中
  • BitcoinとかRippleとか眺めてると毎日ねあがっている。これはバブルなのか、時代が来ているのか。全然わからない。
  • クレカのポイントが溜まっていたのでAmazonに5000円投入。

妹がADHD

私には妹がいて、昨年度司法試験に受かり、今司法修習生として弁護士見習いとして日々邁進しているそうですが、 今彼女がお世話になっている先生が、ADHD自閉症などの障害の専門家らしく、「あなたも間違いなくそうです」と言われたそうです。つまり、うちの妹も晴れて専門家からADHD自閉症というお墨付きを貰ったことになります。 本人の感想としては、「生きづらさの理由が分かって良かった」とのことで、僕の感想としても「良かったね、そして羨ましい」というものになります。 彼女は世界の生きづらさに保証と承認を貰い、これからは胸を張って生きていけるわけですね。

信仰的合理主義

哲学的ゾンビについて話していた。

外見も行動もほとんど人間だが、意識だけが存在しないそんなもの。

 

哲学的ゾンビを気にしない人間になりたいと思っていた。

外部から判断不可能なら、同一とみなしていいと思う。

 

「では、あなたの愛する人哲学的ゾンビだったら?」

 

あなたがどれだけ愛しても、相手はあなたを愛していない。

少し考えて、やっぱり気にしない人間になりたいと思う。

 

そう答えると、彼女はふーんと言った。

 

「人間ってそれなりに合理的だけどさ、単純にその方が便利だから合理的判断をするんだけど、君って合理的だから合理的じゃなくて、ただの信仰だよね」

 

そう続けて言われた。

考え方のフレームワーク

仕事が楽しくなってきたなと思った。それなりにハマってきたと言える。

時間を費やすと引き返せなくなるのは人間の特性だが、私もやっと仕事がその域にきたと言うことだろう。

最近、ディールカーネギーの「人を動かす」を読んでいる。著者の別の作品「道は開ける」が大好きで辛い時に救われたことがある。「人を動かす」も読みたいなと思っており、やっと時間ができたという次第だ。

 

「人を動かす」を読んでいたのは、「人間関係の難しさはオブジェクト指向の問題点に似ているな」と思った、そして「関数型プログラミングみたいだったら、テストもできて状態に左右されたりせず、楽だったんだろうな」と続く。

 

ふと何かを思いついた時に、「これって、今扱っているアレと似ているな」と思う時に仕事のことが出てきたことに対して、結構仕事を好きになってきているなと感じた。

 

大学生の頃は何を見てもカードゲームに紐づけて考えていたりした。人生はカードゲームのようだと本気で思っていた。

思考の大元にある指針が、カードゲームから仕事に切り替わったことを見て、新しい価値観が身についてきたなと嬉しくなった。

 

 

恋愛を語るタブー。

好きな漫画の新刊が出ていた。恋は光という漫画だ。
主人公の大学生は、恋をする女性が光って見えるという能力を手に入れた。

 

恋が可視化されるというお話だ。恋というものが観測可能なものとなった。観測可能となった結果、仮説検証可能なものとして扱われる。恋をしているなら光る、恋をしていないなら光らない。


恋をするとはどういった状態に発生するのか、この感情は恋ではないのか。その検討や思惑の動きが面白い。

 

 

自分の感覚では、恋や愛というのは定義として絶対善であり、それ以上踏み込むことが許されず、検討することもできないという扱いが一般的だと思っていた。
それが恋を、光という具体的な事象に落としたことで、恋とは何なのかということを更に追うことを可能にした。これは今まで持っていた恋の議論の不可能性という価値観を揺さぶったことに面白いと感じている。

 


ずっと違和感を持っていた。
物語を読んでいて、恋や愛というのが秤の上で無根拠に重いものとして扱われていることを。

金 vs 愛
仕事 vs 愛

愛以外が勝つには強い理由が必要とされる一方、愛が勝つことは無根拠に許されている。そして「必ず最後に愛は勝つ」とKANは歌う。


皆恋なんて信じていないのではないかと思っている。
僕たちが議論すら許されずそれらを肯定するのは、心の奥底ではそれをまやかしだと思っているときではないのか。議論を許さないのは突き詰めて考えると無いことが分かってしまうから。

例えば、「お墓を何故壊してはいけないか?」という議論は許されることに対して、「お墓を何故壊して良いか?」という議論は許されない。
前提の時点で既に答えが規定されている。そもそも論に立ち戻ることを倫理的に許されない。お墓は壊してはいけないものですよね、そうでしょう?

 

これは皆、お墓が象徴する幽霊や先祖霊というのをむしろ信じていないからではないか。霊は見えないし、本当にあるかどうかが分からないから。破壊しても何も起こらないし、世界は何も変わらないことを私たちは知っているからではないのか。
だから、倫理的な前提でストップをかけている。

 


恋愛だってこれと同じではないのか。
私たちは恋愛がまやかしであり、真実ではないと薄々気づいている。だから吟味自体がタブーと成っている。物語上で無根拠に善として扱われる。


恋は光は、無根拠に存在すると信じられ、存在自体を問われることをタブーとされたものを、現実のものとして可視化することで、タブーに踏み込むことを可能にした。

 

だから面白いと思った。

 

 

休日の、前日。

仕事を終え、部屋に戻り、だらだらと意味があるようで特に意味のないただ日々の所作の中に取り込まれたあまり感情が動くわけでもない動作、いわゆる日課を終えると、スマートフォンが9時のアラームを告げ、あなたが8時間半の睡眠を取るにはもう布団に入るように準備を始めないと間に合わないですよと告げる。自分で設定したこととはいえ、口うるさい母親のように感じる。 平日だったら、いそいそと布団を広げ始めるところだが、今日は金曜日。明日は何の予定も無い、白い一面の銀世界。ただ、私は分かっているのはその銀世界が手に入るのはちゃんと早くおきた時だけなのだと、明日が何も無いということに甘え、だらだらと夜を過ごし、時計が頂点を回った辺りに寝ると、翌日手に入るのは重い体と回りすぎた時計。そう一面の銀世界も踏み荒らされ、雨と泥で茶色く変わる。 そのような愚を起こさないためにも、自分に対して、翌日はただの銀世界ではなく、色とりどり夢に溢れた希望の日であることを教えねばならない。早く寝ることは希望の日へのチケットであるということを理解させねばならぬのだ。

私は机の上に置いてあるメモ用紙を一枚切り出し、明日何をやろうかと書き出してみる。「1.掃除」「2.ゼルダ ブレスオブザ・ワイルド」「3.ブログを書く」まぁ悪くない、悪くないがこれではいつもと変わらぬ。自分を寝かしつけるには魅力が足りぬ。私はEvernoteを開き、その中の「やりたいことリスト」の項目を開く。毎日思いついたタイミングで書いているが、非効率かつ曖昧に生きている私はリストは積み重なるばかりでなかなか消費しきれない。毎週3つ消化して7個付け足されるような有様である。その私の負債とも呼ぶべきリストをダラダラと眺めると目に留まる。「夜は短し歩けよ乙女 映画」。

映画、映画か。もともとそんなに見る方ではなかったが、千葉に引っ越してからというものの一人の時間が長い、一人の時間が長いと人間というのは不思議なもので、無理やり自分の心に刺激を与えたいと思うものらしい。肉体の健康に運動と食事が必要なように、心の健康にも適度な運動が必要なのだろう。心の刺激にはコンテンツが最高だ(というかそれしか知らない)。本は毎日何となく読んでいるが、休日はまた別のものをというわけで、最近は映画をよく見るようになった。具体的に言うと、引っ越してから毎週見ている。先週はSING、その前は「LA LA LAND」、その前は「ひるね姫」、「SAO」「沈黙」と続いていく。こう思い出しても結構見ている。もしかして、これはもう趣味と呼称しても良いのではないだろうか。趣味ならば今週もまた見なければならない、私は何でもルーチンとして取り込んでしまう方が好きだ。それはわかりやすいから。見る理由、見たい理由をいち考えるのはしんどい。そう、これは私が毎週やっていることなのだよ、と言えば理由はいらない。楽なものだ。

夜は短し歩けよ乙女」は森見登美彦の小説だ。森見登美彦を初めて読んだのは「太陽の塔」で、大学受験の頃だった。大学受験時代は私は時間の大半を高校の図書室で過ごした。そこの司書は女の人で、気難しい人で、かなり痩せていた。心無い人は影でガリ子と呼んでいたことを覚えている(私は自分がどう呼んでいたかどうか覚えていないが、他人の身体的特徴を含んだあだ名は基本的に抵抗感がある)。私は受験勉強の息抜きに本をよく呼んでいたが、自分で選択をできるほど熱心ではなかったので、その司書にオススメを聞くということを繰り返していた。森見登美彦太陽の塔はその一冊であった。特別面白かったという記憶は無いが、特徴的な文体や、同時期に読んだ鴨川ホルモーなど京都を印象付ける作品であった。

夜は短し歩けよ乙女は大学に入ってから、新たに刊行された森見登美彦の小説ということで、本屋をウロウロとしていたら目に止まった。キャッチーなタイトルに印象的なイラストで懐かしさもあり、手にとった。 内容は可愛い女の子を思う冴えない先輩、色々あった末、その子となんかこう良い感じになるという話。主人公は外堀を埋め、本人だけの世界から出てこない葛藤のみと戦い、気づいたら女の子が手を伸ばしてくれるという気持ち悪い話の典型だ。この気持ち悪いという感覚は、絶対にありえないにも関わらず自分の中に願望として存在しているものをそう呼んでいる。シンデレラ症候群の男女が入れ替わったような話は世の中に多く存在する、夜は短し歩けよ乙女もその典型だ。 ただ、その気持ち悪さが絶妙に隠蔽されてあり、不思議な展開や古風な文体でごまかされているというところが、その気持ち悪さを上手く隠しており、下に載せたときの味わいは悪くない。つまり、楽しく読めた。

今は大学生活も終わり、結局起こらないはずのことは起こらない、というトートロジーを突きつけられ、今も静かに枯れ木のように生きている。

明日見る映画のよって、当時の気持ち悪い感覚が起これば幸いだ。

心が現れる場所

自分の心を正確に把握したいという欲求がある。

正確に把握するとはどういうことか。答えの一つとして、自分の心というモデルを構築することにある。このモデルには同じインプットを与える限り、必ず同じアウトプットが返ってくる。 このように一貫性や法則性がある形で表現可能な状態になること、それが把握することだと思う。 それを自分の心に対して行いたい欲求がある。

道は険しい。一歩も進んでいないとも思う。 自分の心というものは法則もなく、一貫性もなく、矛盾に満ち、安定していない。 私は自分の心というものが全く分からない。私はそれがとても悲しい。

一番身近な、27年間付き合ってきたものすら完全に把握できない。私の心は私をいつも挫折させ、敗北感を覚えさせる。

そのために、私は自分にあまり自信が持てない。この敗北感は、自分を大したこと無いつまらない人間だと思わさせられる。 私は私を明文化できない。文章にできず、語ることが出来ないものを私は認識できない。私は自分というものが把握できない、把握できないので、私とは何かが分からない。人に私を伝えられない。

物語を読むことは好きだ。 物語は心を動かされるから、面白い、楽しい、感動した。そこには私の心が垣間見える。私は物語に自分の心を見出そうとしている。

だから、私は色々な物に感情を動かされたい。面白いコンテンツにとどまらず、小難しい本や、仕事、古代の芸術などよくわからないものにも。 そして、果ては空の青さなど何でもないものにも。

いつか、天井のシミが自分の心に見えるようになりたいものだ。

完全との向き合い方

心を言葉に射影する話。

ただ単純に日々を生きるというだけで、私は様々なことを考える。考えるという行為をもう少しわかりやすい言葉にすると、抽象的なものをもう少し具体的なものに分割する作業だと思っている。 例えば、今日の晩御飯をどうしようかな、という考えを、肉じゃがにしようかなと置き換えるように。

ただ、それでも考えきれずに、具体化されないまま心のなかに蓄積されていくものが沢山ある。 何故、人は生きるのか、幸福とは何か、私はどう日々を送るべきなのか、という風に。

最近意識して、考えた結果の生成物が具体的な言葉になるようにしている。人間は抽象的なものを抽象的に扱えるほど器用ではなく、すぐ頭のなかから消えてしまう。だから、自分が扱える手頃なものにするべきだ、それが言葉だと思っている。 言葉で定義することで人は認識ができる。昨今の漠然とした不安に「承認欲求」という言葉が当てられることで、自分の中の欲求を認識できたように。

だから、私は多くのもやもやとした抽象的なことを具体的に言葉に起こしたいな、と思っている。

一方、それは不完全な営みだと考える人もいる。

抽象的であるということは、より美しく完璧であるということだ。 甘いより、美味しいの方がより抽象的で、完璧である。

ショートケーキを食べて、美味しい、という感覚があったとき、それを必死に言葉にする。甘くて、イチゴが乗っていて、スポンジはふわふわしていて、と。では、どこまで頑張ったらそれは最初の美味しいに辿り着けるのか。 言葉というのは、大きな籠に入れていく石のようなものだ。どれだけキッチリつめていっても、僅かに隙間が生まれてしまう。どこまで努力しても、最初の籠にたどり着けない。そして、その隙間こそが美味しさの本質だろう。 言葉にするという行為は、本当に大事なものを削ぎ落としてしまう危険性がある。

だから、無理に言葉にするという行為はしないほうが良い。

ただ、私はこう考える。心の完全な把握を求め、言葉に落としていく。そして、埋まらない溝に絶望する。この絶望こそが重要なのではないか。

元々私は不完全な存在だ。思い通りに動けず、理想からは程遠い。何もなさず、川底の無数の石のように、ただ大きな水のうねりに流されるだけの存在だ。 その存在が完全生と向き合うには、完全なものと不完全なものの絶壁と向き合うことしかないような気がする。

今日の日記のように。