近況

久々に暗い気持ちが溜まってきたので日記を書く。

 

来週IPAネットワークスペシャリストの試験があり、勉強していた。ネットワークは仕事で直接扱うことはない。しかし、仕事をしていく中でコンピュータ・サイエンスというもの何も分かっていないな、という気持ちになることが多く時間を見つけて勉強するようにしている。

 

勉強をしていると、何のために勉強するのか、という気持ちになる。これは「三角関数が何の役に立つのか」というTwitterみたいな話ではない。学んでいることが仕事のどういう場に使われており、どういう問題が発生したときの解決に役に立つのかや学んでいくことで仕事上のキャリアややれることの幅を広げてくれることは把握している。

 

それでも、やはり「何のために勉強するのだろう」という気持ちにはなる。

 

「来世ではちゃんとします」という群像劇的マンガがある。この作品に「トオルくん」というキャラクターが存在する。トオルくんはアニメーションスタジオでリーダーであり、仕事について周囲の信頼も厚い。トオルくんはもてないし、風俗嬢にガチ恋をしており、風俗嬢に貢いでいる。そして風俗嬢が自分を好きにはならず、お金を貢げることが自分の価値だということも理解している。

 

そのトオルくんが「なぜ仕事を頑張るの?」と質問されたときの言葉が印象に残っている。

「居場所を作るには仕事をするのが一番手っ取り早いから」みたいなことを言っていて、分かるなぁと思ったことがある。

 

自分にとっての仕事や勉強もそういう目的がある。他者からの機能や能力によって必要とされるのは自分にとって楽だし、心地よさがある。

 

 

 

対人関係で最近気づいたことがある。

対人関係の活動の中で、「相手を喜ばせよう」とか「相手を楽しませよう」のようなホスピタリティの高い活動が非常に苦手である。これはすることも苦手なのだが、同時にされることも苦手である。

喜ばせたり楽しませようとすると相手が「喜んでくれる」のだが、その感じが個人として相対している人間が突然主体性を失って演技が始まってしまったかのようで、非常に気持ち悪いのだ。この気持ち悪さとそもそも相手を喜ばせることの難易度の高さも相まってずっと避けていたのだが、どうやら必要なことのようだ。

 

必要なスキルは身につけたいと思うが、どうもここについては取っ掛かりが難しい。

最近は諦めようかとすら思っている。必要なことを避けたり、行わなかった際にはペナルティが存在する。この場合のペナルティは「他者も自分の内面を気にかけたり、ケアしたりしないようになる」ということが考えられる。

 

つまり、孤独ということだ。そして、そういう孤独とどう付き合っていくか、という問題は考えがいがありそうで、悪くはないと感じている。

止まる

だいぶ会社内での立場と地位が上がってきている。

 

新規の案件があると声をかけられ、社内の状況・リソース・技術的な課題に対しての意見と問題点に対して適切な人員の配置とリソースを考え、実際に行動し、自分より若い人に向けては研修と教育のプログラムの作成と本人のレベルと会社の期待を調整するフィードバックを定期的に行い、自分で解決できない問題があれば他部署も巻き込んで解決できるように地道な根回しをし。みたいな。

 

わかって欲しい。

 

情緒は割と安定しているし、メンタルが落ちても対処を自分でできるくらいには経験があり、そして給与と評価が自然と上がり、皆から割と好かれていて、尊敬してると公言してくる後輩が割りといて、自分がちゃんとやってることを理解されてることも理解している。

 

ただ、たまに、どうしてもバランスが崩れる。

頭で理解している実際の状況と感情面に差が出る。世界とつながっていない感じがする。

メンタルの崩れの最初はこういうところからやってくる。

 

そして、ご飯を食べて、散歩をして、サウナに行って、早く寝ると、多分治る。

 

これを理解した上で、理解しているからこそ、自分が実際の世界に存在しているというよりは一つのシステムの上にのって機能しているだけのように感じるのである。

バチェラーを今更見た

本物の"漢"なので、恋愛バラエティのような俗なものはみるに値しないと、距離を置いていたが、人生に行き詰まっているときはあえて避けているものを取り入れることにしているので、みることにした。

 

シーズン4まで出ているらしいが、シーズン1を見始めている。(見始めていると言ってもまだ2話)

 

見た最初の感想はバチェラーの久保さんのメンタリティの強さである。女性陣がプレッシャーで泣いていたりするが、俺が久保さんだったら俺のほうが先に泣きそうな気がする。

この異常なメンタリティ知人で見たことあるな、と思ったら、うちの会社の社長だった。

えてして、経営者とは強靭なメンタリティが必要なんだなぁ、と、まずはそれを感じられただけで収穫だった。

 

内容もデスゲームのようなハラハラ感があり、見ていて飽きないし続きが気になる構成になっている。音楽や舞台装置など色々な演出も仕組まれているかのように良い。

皆が面白いと言うものはやはり面白いなぁ、と幾度となく繰り返して感想を抱いた

 

 

何が嫌いかを語る

頑張って生きております。

8月 -> 11月は仕事が佳境を迎えており、ゴタゴタしてました。プロジェクトで本来自分の責任範囲ではないところに無理やり首を突っ込んで、全部巻き取って何とかしてました。

こういうと凄腕エンジニアっぽくて格好良いですが、中身は今まで気づいてきた関係性をベースに経験のある人に色々時間を取って教えて貰ったり、情報を持ってる関係者に繋いでもらったりとただただ泥臭さがあり、その泥臭さに耐えられるようにはなったのは結構成長したなと振り返って思います。

 

なにか大きく努力したり、力を注ぐと持つ価値観というのに少なからず変化を与えます。それだけ時間をかけ、しかも成功体験もあると変わるものです。

 

一番は「社内評論家を信用するな」というインターネットによくある話でした。「こうだからうまく行かない」とか「こうしたらうまくいく」と言いながら、それが成立するように行動を取っていない人は信用できないという思いでした、というかこっちは泥臭く無理を通してやってるのに、やりもしないやつに色々言われるとイラつくという感情の問題ですが。

 

こういう仕事のような社会的なことにコミットして、それに関することで内心腹を立てるという自分も好きではないですが、それをあざ笑って社会的行事に参加しない自分というのもまた好きではないので、自分というのは難しいですね。というか、こういう矛盾した側面を持ち続けているので自分というのがあまり好きではないのですが、矛盾した側面を無視しているのもまた好きではないので。結局すべてを嫌いながら固定せずたゆたい続け即時的に判断し続け、全てを嫌い続けるのもまた人生かと思います。こういう考えは結構好きです。何かが決まることというのが一番嫌いなんだと思います。

サウナ日記

ザ・ベッド&スパ 所沢に行ってきた。 とても満足度が高かった。

サウナの満足度はサウナ室の出来、水風呂の温度、外気浴環境、人の混み具合と複数の要員によって決まるが、 ベッドスパ所沢はどれも高い水準でまとまっていた。

風呂は室内にバイブラ付きのぬる湯とあつ湯。屋外にはぬる湯が一つ。 通常の40度前後の風呂がなく、36度と42度の二種類という風呂はサウナのローテの一部という割り切りがとても良かった。 特に屋外のぬる湯は愛知の有名サウナ、ウェルビー栄のプール椅子と同じように、プールサイドチェアが沈めてあり、いつまででも横たわっていられた。

本命のサウナは広く、左右の2つのエリアに分かれており、左はテレビ付き、右は静寂と配置分けをしており、この点もウェルビー栄と同様といえる。 良いサウナは入ったときにジメッとした高い湿度を感じるが、ここのサウナはオートロウリュが定期的に動いており、湿度が高いままで維持されており、そこまで温度が高くないものの体感温度はとても高く気持ちよかった。

水風呂は14度。最近17度前後の場所が多いが、そこよりワンランク冷たくしており、火照った体をしっかりと冷やすことができる。

3セットしっかりやって最後にあつ湯へ。あつ湯があるサウナってそこまでないんだけど、最後に入るこのあつ湯がすごい好きなんだよね。

停滞

最近仕事面で能力的停滞を感じている。

 

今まで当たり前のようにできていたことができなくなった。

正確には以前より多くの選択肢や影響要素が見えるようになったが、見えた上で野最適な決断がまだわからず、漠然と「うまくできていない」という感覚のままに生きている。

 

プログラムを書いていても以前は仕様に合わせて動いていればよかったが、現在はGPUやCPUなどより低レイヤのパフォーマンスを考慮しても最適であるのか。

また、そこに合わせてUIデザインレベルから考え直すことがあるんじゃないか、などモヤモヤとしながら書いている。

あちらを立てればこちらが立たず、という状況が以前よりも増えた。

 

この時期、客観的な成果としては以前よりパフォーマンスが落ちている。

多くのことにつまずく時期が増え、仕事の作業は落ちた。新しい見えたものを考慮した結果、今までちゃんとできていたところとバランスが取れていないことが気づくことが増えた。自分にだけ見えている前提を説明しようとして、失敗すること、そもそも考えること自体に意味がなかったりする、ようなことも増えた。

 

自分としては新しい変数を考慮するようになり、経験と時間で解決される領域であることはわかっている。一方、自分はそろそろ経験と時間で解決すると他者から思われる立場でもないのだろう、ということを理解している。

 

最近管理職を打診された。

もともと会社に管理職が少なすぎると思っていたので、誰かがやる必要があり、やるなら自分だろうなと思っていた。

今の時点からまたやることや考えることは増えているが、まぁ最初から上手くやれないのだろう。

 

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人生は具体としての生活には苦しみしかない。ただ、その苦しみを眺め、俯瞰した際にわずかに感じる尊さを信じて生きるしかないのではないか。

 

なにかに深く依存し、それこそが最も大切と感じた後に、その馬鹿らしさや無意味さに気づき、途方に暮れる。その繰り返し。

 

なにかに深く依存することも、そこから醒めることも、大きな川の流れの一つに過ぎず。そしてまた停滞もその一つ。

インフラとなる

このブログを書くときもいつもイライラやモヤモヤや苛立ちとともに書くことにしている。

基本的に人と話すときはなるべく愛想よく、辛いこと、苛立つことも全部楽しそうに話すことにしている。まぁ実際自分の感情について話すことは楽しいので、楽しそうにしていることは半分あたっている。人に話すときは自分というものは自分を離れ、非常に他人事のように感じる。その瞬間には苛立っている自分とは他者性のある批評の対象にしかならない。

ただここに書くときは、苛立ちやもやもやはすべて自分のものであり、自分の向き合う対象である。人と話すときに苛立ちやもやもやを楽しそうに話せるのは一重に努力の賜物であり、人に苛立ちをぶつけることは良くないという倫理観のもとの行動である。

 

この前31歳になったが、どんどん年齢を重ねるうちにこのもやもやを自己解消する術が必要になってくる。最近特に意識するが、世界や他者はどんどん自分への関心を失っていくようだ。ある程度機能することが保証され、定期的なメンテナンスが必要なく、自己補修が可能であることが価値になっていく。価値を発揮すればするほど、自分はインフラとなり、世界からの関心は薄れていく。期待されるのは変化ではなく安定である。

 

この世界からの期待と自分の内面性のギャップが存在する。自分はまだ変化していく存在であるという自己認識がある。このギャップ自体は少しのストレスを生む。

そしてドンドンと本当の若者が増えていく。彼らは脆弱で変化し、注意深く監視しなければならない。その監視の役割は自分が担うことになる。

 

自分はその構図に嘆き、絶望しそうになるが、このストレスを乗り越える方法を模索するのみである。