何もない世界を生きる

最近映画をよく見る。

映画は面白いかもしれないし、面白くないかもしれない。私はよく面白いかもしれないし、面白くないかもしれないことを良くしている。正直何もわからない。

何もわからないが、私は映画を見て笑ったり泣いたりをする。私にとって私とはよくわからないけど、泣いたり笑ったりする何かである。

 

最近色々な背景を持つ人と話す機会がある。

色々な背景を持つ人と言うが、それは驚くような経歴であることはなく、全ての人が色々な背景を持っている。そのため現象としてはただ人と話しているだけである。

 

色々な人は色々な考えを持っている。

ただ多くの場合、皆何か理由があって泣いたり、笑ったりするらしい。例えば、映画の感動するシーンに泣いたりする。

自分もそうなのかもしれないと思った。自分も映画に感動して泣いているのかなぁと思ったが、あんまりよく分からなかった。

今もわからない。でも、映画を見たら泣いたり笑ったりはしている。そういうものだ。

 

長々と、自分の何もなさを感じていた。

これはずっと払拭されることはなく、有名な大学に進学しても、何かの大会で優勝しても、彼女ができても、20代としては不相応な年収を手に入れても、自分にはずっと何もなかった。

 

それは今も特に変わらない。

 

ただ、悩まなくはなった。正確には悩むのをやめようと思った。

悩むのをやめると、悩みからは開放された。

なにもないが、そういうものだと思うようになった。

 

目の間には現実と世界のみがあって、そこと接する存在として自分がいて、自分は現象に反応するけれど、その中には何もない。

 

哲学的ゾンビという言葉がある。

 

多分、自分はそれなんだろう。

哲学的ゾンビは人間のように哲学をする。人間のように笑うし、人間のように泣くし、人間のように自分を哲学的ゾンビではないかと心配し、不安になる。

けど、哲学的ゾンビの中には魂はない。

 

 

アド・アストラという映画を見た。

世界にはただ何もないし、宇宙の先にもなにもないし、科学の先にもなにもない。

ただ何もない世界がある。

 

けれども、それを知りながら生きて、死ぬ。

 

そういう映画だった。

 

それを見て、哲学的ゾンビは感動して泣いた。

 

何もない世界を力強く生きる様は、とても美しいと思ったから。