最近は月の裏から毒電波が飛んできている

◇月の裏の毒電波

 

SNS疲れという言葉があった。

当時はmixiとかが出始めて、色々な友人とのやり取りを密に行うことができるようになった。結果、そのやり取りを正しく行うことが「仲間」を意味する。その仲間信号を贈り続けることに疲れた、という文脈で発生した言葉だ。

 

最近自分もSNSに疲れている。元々熱心に活動していたわけではない。そもそも鍵をつけたり外したりもするし、10年弱やってきて一回もバズったこともない。特に耳目を集めようと発言したこともない。だから、何かの強迫観念を感じたわけではない。

 

それでも最近はTLを眺めるのが疲れてしまった。

TLでは誰かが誰かに怒っている。そして、怒っている人たちにもっと寛容になれよ、という諭しが入る。それにもう疲れてしまった。

他人の感情は見ると疲れる。

 

なぜ人はSNSで感情を発するのだろうか。

感情は伝染する、僕が疲れるように。ただ同時に共感も呼び起こす。

いいねやRTがゲームのポイントのように増え、報酬系に効く。

最近の仕組みはすべて報酬系をうまく刺激するようにデザインされている。

そしてそれによって人を操っている。

「月の裏の毒電波が俺を操っているんだ」特段おかしなことを言っているようには聞こえない。月の裏ではないけど。

 

資本主義という思想が十分に浸透してきた。

皆、競争とお金のことを考えている、その前提の上の合理主義を要求されている。

ただ人間には感情と本能がある。人間はある程度は感情で動いて、ある程度は合理や理性の上で判断する。つまり人は確率的にしか合理的に活動できない。

この前提をうまく飲み込めていない人がいる。

 

◇感情的な合理主義者

 

その人は自分を合理主義者だと思っている。正確には思いたがっている。

合理主義は非合理を認めない。でも、世の中に非合理なことなんて山ほどある。まず人間が基本的に非合理でもある。

ただ非合理を合理のように語ることができる。合理とは前提のとり方でいくらでも変化する。つまり合理主義を信奉した結果、無意識に自分に都合の良い前提を採択して物事を語る。

結果、事実とことなった前提のもとに行動を立て、うまく行かないという事態に直面する。しかし自分は合理的に決断したと思っているため、失敗に対しても合理的な説明をする必要がある。そのために、失敗した理由を新たに外挿する。「周囲が非協力であった」「材料が不足していた」。

そして、その理屈に安住して満足する。

 

そのような合理的ではない自分を認められないというのがそもそも感情的発露に過ぎない。

ただ自分自身は合理的であるという前提から離れないと、合理的でありたいということ自体が感情的であるという構造は見えてこない。

なかなか難しい。

 

◇世界は確率的である

 

これはうまくいくのだろうか?という疑念を人はよく抱く。

最近はそれについてあまり考えないようにしている。うまくいくときもあるし、うまくいかないときもある、ということが分かったからだ。

だったら、とりあえずやった方が良いのではないかと思っている。

自分は特にポジティブなわけではないが、割とポジティブな発言をする。「やってみないと分からないよ」。やってみないと分からないと思っている。サイコロの6の目を出すにはサイコロを降るのが一番良いのではないか、と言っているだけである。

 

サイコロを振って7の目は出るのか?

ここだけは論理である。サイコロには6つの面があり、1から6の数字が書いてあるので7は出ない。

7が出ないなら流石に諦めたほうが良い。

 

でも世の中そんな分かりやすく結論が出る問題はほとんどない。

なので結局は何の数字が書かれているか分からないサイコロを振るだけである。