恋愛工学の本を読んだ。

あまり良く知らないが、少し話題になったりしていたので名前を知っていた。

とても嫌いなので避けていたのだが、人から勧められたことと、忌避感は良くないという精神論で読んでみた。

 

だいぶ知見は深まったので良かったが、自分が恋愛工学を忌避していた理由も分かり、若干暗い気持ちにもなった。自分の偏見を見つけると、最初はやはり悲しい気持ちになる。もうだいぶ慣れて、これもまた乗り越える壁なのだろう。

 

 

恋愛工学とは、「恋愛を物語として捉えているが、その物語の登場人物に自分を想像できない人に対して、恋愛の物語性を解体することで恋愛参加を可能にする」という機能のあるものだった。

恋愛工学は「工学」というワードや人を過度に「このインプットにはこういうアウトプットを返す」という形で説明したり、人間の内心に対して思いを馳せない。ある種の行動主義を過度に推し進め、恋愛に適応している。

これは恋愛というロマンチックに語られるものを「そんなものはないのだぞ」と解体する効果がある。

 

これは恋愛がロマンチックかつ運命に基づくと、自分にはとても無理である、という人に対して恋愛を可能であるという世界観を根付かせることを可能にする。

人間可能と思えれば、まぁ大体可能である。可能性を与えること自体の意味はとても大きい。

 

そういう意味で恋愛工学はまぁそんなに悪いものではない。

 

ただ同時に、自分の今までの忌避感が「恋愛のロマンチック要素の解体」そのものに存在していたことも同時に気付かされた。

そう、自分の信じていた世界観は恋愛工学の視点からでも十分説明可能である。それはつまり、自分の信じていた世界に対して「そんなものはない」と強く指摘された状況である。

自分が今まで忌避感を感じ、避けていた理由はただそれだけでしかなかったのだ。

 

 

自分の世界を解体されるのは、とてもとても嫌だ。

自分の世界を自分以外の言葉で解釈されるのはとても嫌だ。

 

自分のものではない言葉で世界を語られるのは本当に嫌だ。

 

だが、まぁ気づいてしまったのだ。受け入れるしか無いと。