虎とジョゼと魚たちを見てきた

映画虎とジョゼと魚たちを見てきた。

 

映画館に向かうまでの街は結構振り袖の人たちがいて、駅前に成人式はオンラインになりました、というコロナっぽい文言があったが、振り袖を着て街を歩くということ自体が個人的な成人式になるんだろう。

 

自分は友人に誘われて、さいたま新都心までの電車に乗っていた。京浜東北線で一本の予定だった。電車に乗ったら最近はまっている詰将棋をとき始めた。

結構といたところで、電車内部の路線情報を見たら、乗り過ごしていることに気づいた。

電車を乗り過ごすことはよくあることなので、電車を降りて反対方向の電車に乗った。

2駅くらい過ぎたところで、改めて電車内部の路線情報を見たところ、どうやらさっきは別に乗り過ごしていなかったということに気づいた。

こういうこともよくあることなので、次の駅で降りて、反対方向の電車に乗った。

 

早めに出ていたがそれでも5分ほど遅刻しそうなので、LINEで「乗り過ごしたと思って反対方向に乗ったけど実は乗り過ごしていなかったので5分遅れる」と送った。「おう」と返ってきた。お互いこういうことに慣れているので、やり取りもシンプルになる。相手にコストをかけたことに特に悪びれる態度を取らないことは、一種の甘えに見えるが、この甘えによりコストを掛け合うことが親しさの表現になる、ということを当人に言ったところ、「まぁいいけど、気をつけてよ」と言われた。

 

映画が始まるまでに1時間くらいあるので、近くの喫茶店で時間を潰した。そこで「虎とジョゼと魚たち」の原作を読んだ。

1980年代、退廃的共依存、という印象を持った。主人公は流されるままに、弱い存在のヒロインを独占することに惹かれていく。そしてヒロインは主人公が自分と同じ、死んだような魚になっていくことに幸福を感じる。

 

こういう欲望って最近は隠蔽されながら表現されているよなぁ。天気の子の主人公も似たような欲望を抱えていた気がする。

 

どんな映画なんだろと興味が湧いた。

 

 

実際の映画はとても爽やかな青春映画だった。舞台が2020年で、小説が書かれた頃から40年経って、世界は多くのことが変わったし、トータルとして良い方向に向いていることが表現されていた。

 

原作では車椅子に乗るジョゼはエレベーターに車椅子で乗ることができず、抱えて運ばれているところを同じエレベーターに乗るおばさんに笑われたり、ホテルのスタッフは極力ジョゼと目を合わせないようにしたり、と世界から弾かれるものとして扱われる。

 

ただ映画では、主人公含めた登場人物はジョゼの車椅子について特に何も言わない。それは触れないのではなく、ただそういう人として扱う。駅のエレベーターは車椅子で移動でき、電車の移動も駅員がサポートしてくれて、観覧車に乗るところは車椅子から移動するところの描写すらなく「当然のように」乗ることができる。

 

序盤、車椅子にぶつかって無視をするおじさんが現れるが、主人公はそこに憤りを感じ、おじさんはおばさんに説教され、周りから笑われる。ただ迷惑なおじさんがいただけであり、ジョゼの問題ではないことがわかる。

 

 

昔の時代の存在としておばあさんが存在する。ジョゼが導入で坂を落ちていったときに「悪い誰かに押されたのだろう」と言う。これは原作と同じだ。

そんなおばあさんがジョゼにお茶をついだときに、「この子は足が悪いから自分でつげない」と言ったときに主人公が「ペットボトルとかやりようがあるだろう」と返す。

この感覚はジョゼを障がい者として扱おうとするおばあさんに対して、現代的な人そのものとして扱おうとする主人公にギャップがあって面白かった。

 

こういう風にジョゼは物語の中で、ずっと車椅子で移動する普通の人という扱いを受け続けるのがとても現代的だった。

 

 

主人公とジョゼの関係性も強い・弱いという、依存・非依存という関係性ではなく、対等なサポートする存在として描かれていて、良い意味で普通の青春物語の作法をなぞっていた。つまり、驚くくらい普通の物語でしか無いのである。

 

この辺は同じ障がい者がヒロインとして登場する聲の形で、ヒロインが主人公の生きる目的として置かれるところと対照的で面白いと感じた。

 

互いが互いの夢に背中を押し、ともに心折れそうなときにサポートしながら生きていく、という健全な関係性だけがそこにある。

それを障がい者というヒロインを起きながら達成したところに、虎とジョゼと魚たちの良さがあるのだろう。