読書履歴: 「若者」をやめて、「大人」を始める「成熟困難時代」をどう生きるか? 熊代亨. 「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか? (2/2)
「若さ志向」から「成熟志向」へ
大人になることとして、価値観の変化がある。
若者が自己の成長や喜びを第一義として定義していたところ、それが他者の成長や喜びが変化していく。
それは自分の成長の限界を感じ、後進を育成するほうが全体としての幸福の総量が増えていくというところで感じたりする。
「大人」はコスパが悪く見える。
親が子どもに美味しいものを食べさせることで満足している姿を不思議に思った、ということを筆者が書いていた。
この経験は自分にも同種のものがある。刺し身は美味しいのに、父親は自分で食べようとするのではなく子どもに食べさせようとしていて、とても不思議に感じていた。
自分で快楽を摂取するのではなく、それを分け与えることに喜びを感じる。ここに大人としての要素がある。
この差異に自分が大人になってきていることを感じた。
最近、昔だったら同意できたことに徐々に同意ができなくなる時がある。
それは「自分の快楽の最大化が至上命題である」という価値観である。
これは一部自分の主義主張とも通ずるが徐々にずれつつある。
自分は「自分の幸福の最大化が至上命題である」と感じている。しかし、それは快楽とは微妙に異なるニュアンスがある。自分の快楽が最大化されなくとも、自分の幸福が最大化されうるとボンヤリ感じている。
自分が多少の損をしても、それによって他者が大きな幸福を得られるならばそれで良いのではないか、そういう感覚が今はある。
大人になった実感を持ちづらい時代
大人になるための通過儀礼や仕組みは解体された。
これは大人という仕組みが解体されたわけではなく、大人になるためのタイミングが自由に選べるようになった。結果としてモラトリアムと呼ばれるまさに猶予期間が発生するようになった。
現代社会において、モラトリアムは就職のための前段階くらいの意味だが就職することが大人になることを意味はしない。
大人とは先のような価値体系の変化が伴う。就職をしても感覚としては若者を維持し続ける人は多い。
また、年齢構造が変化し年長者の比率が高くなった。結果として大人がとても増え、大人という役割がイス取りゲームのように勝ち取るものになってしまった。
結果、大人になるということが社会全員ができることではなくなった。
大人のアイデンティティへの軟着陸
アイデンティティは年を経て変化していく。
若者ほど変わりやすく、歳を取るにつれて難しくなっていく。
自分は歳を取るにつれて、アイデンティティを抽象化していく傾向にある。昔は様々なコンテンツに触れていること、少し前はゲームに熱中していること、最近は何者にもとらわれずに目の前のものに適応的に行くこと。
アイデンティティの変化は柔軟であるという意味では良いが、地に足がつかない。自分が何者にも慣れていないような焦りを生んでしまう。しかし、アイデンティティが固着すると許せない事が増えていく、そのため現実の問題を受け入れる柔軟性を持ちつつ、アイデンティティが拡散しない。自分のアイデンティティの着地点はそういうバランスのものを探してきた結果かももしれないと思った。
上司や先輩を見つめるポイント
年下から尊敬される大人は凄いが、同様に年下から蔑まれて生きている大人もまた凄い。
彼らも望んでそのような存在になったわけはない。しかし、なってしまったその現状を引き受けて今を生きていることは凄いのではないか、という主張を筆者はしている。
この点はとても同意できるし、また多くの人の救いになるのではないかと思っている。
勝者が勝つ物語が支配された世界で敗者はどう生きていけば良いのだろうか、とたまに考える。
この世界勝てる人はおらず、現実を受け入れる人が大半だ。
今は様々な理由や状況のもとに苦しんでいると感じていても、いつかそれが自分の引き受けないと行けない問題になったとき、その人達はどう生きていけば良いのだろうか。
幸福とは「ある地点において過去の決断を肯定的に捉えられる状態」ではないか、と人と話したことがある。
それと似た話だなと感じた。
後輩や部下に接するとき、どう振る舞うか
多分自分には立ち振舞のバリエーションがとても少なかった。
つまりただ対等に接することしかなかった。これは立場が対等ならばそれでうまく機能する。しかし、能力や権限に差が存在するときの対等な接し方はうまく機能しないこともある。
相対する相手が自分を別の存在と認識した上では、対等な接し方というのは「若作り」にしか感じられないのだろう。
だからこそ、世話をする、面倒を見るという強い自覚が必要になる。
「若者」の恋愛、「大人」の結婚
多分、自分は「若者」の恋愛は憧れてはいたが、ついぞ訪れなかったものだろう。
「好き」というものを身体感覚で学べなかったということは、他者と会話をする上で噛み合わない原因となる。今もたまにある。
昔は「好き」というものの非実在性を考えていたが、最近は他者にあり、自分にはないという構造で理解している。多少の羨ましさや羨望はあるが、無いなら無いなりにうまくやる方法も分かってきたので、「お金持ちはうらやましいなぁ」くらいの軽い気持ちでいる。
お金持ちはお金持ちで自分の知らない苦労を多く抱えているのだろう。
趣味とともに生きていくこと
自分は本書に出てきた趣味を続けられなかった人にあたる。昔は熱中していた様々なものを今は横目で見たり、たまに触る程度の距離感にある。
あの頃の熱中は何だったのか、や懐かしさはあるが、これもまた移り変わりゆく世界では必然だろう。
本書では、その感覚に「自分のあとを引き継いでいるものがいる」という感覚を持つと良いのではないかと提案していた。
確かに今までそんな目を向けたことはなく、どちらかというと「寂しさ」のようなものを感じていたが、そこに自分の残滓のようなものが感じ取れたらきっとそういう虚無さも少しは紛れるのかもしれない。