ひらめいてしまう人たち
最近色々な人間の話をする。
自分がいかに狭い環境下で暮らしてきたのかということを思い知らされる。
人はある程度思慮深く、正常な状態であれば事実と主観を切り分けられるし、混然としていることを認知できるような気がした。
最近はできる人もいるし、できない人もいると思っている。それは訓練次第かもしれないので、将来的にはできるようになるかもしれない。
事実と主観の区別があまりついていないように感じる人の特徴について考えていた。
一つ思い当たるのは「わからない」と「知らない」の使い分けに違和感がある。
事実と主観の区別が付く人は「未来」「他者」に対して、「わからない」という言葉を使い、具体の事象を「知らない」と言う。
逆にその傾向が弱い人は「事象」を「分からない」といい、「未来」「他者」に対して「知らない」と言いがちな気がした。
でも、ここまで書いて違うような気がした。
「他者」に対して知らないと言う人は同時に「理解できない」という気がする。
知らない、理解できないは結局理解できるということが前提にあるのが特徴かもしれない。知らないとは存在しているが認知できないという意味だし、理解できないは自分の座標系に配置できないという意味だろうか。
分からないとは座標系自体の不明さを言っている気がする。
ここには暗黙の他者は異なる座標系を利用している可能性が存在する。
ここまで書いて思うのは、他者を理解するとは「他者の座標系を想像する」ことであり、「他者を自分の座標系に位置づけること」ではない。
ここで言う座標系とは「価値観」と言えるかもしれない。ただ価値観よりもっと広い空間として座標系という言葉を使っている。
この座標系が強固に作られている人ほど、その逸脱が難しいのかもしれない。自分は自分が何が好きなのかあんまり良くわからないし、そもそも好きなものも特に無い気がする。
自分の座標系が弱すぎて、他者の意見を簡単にそんなもんかと思ってしまう。
ただ筋が通っているかどうかを見る力は最低限備わっているので、あまり人から騙されないし、そもそも騙されても別の人に騙されていると言われると、騙されているような気がしてしまうんだろう。
やはり騙されやすいとは自分を信じているということなんだろうか。
ここで思いついた話がある。
先日人と仕事終わりに飲んでいた。
相手は「最近、自分が何も言ってないのに、相手が勝手に想像して「私のこと嫌ってるの?」と聞いてきて正直面倒なんですよね」と言っていた。
自分は「多分何かひらめいちゃったんだよ」と返した。
ひらめくというのはとても良い表現だと思った。
人は自分のひらめきに脆弱だと思う。ひらめいた先に進むのはとても難しい。
30年くらいやってくると自分のひらめきは一般的か、荒唐無稽のどちらかであることが多すぎるので段々慎重になってくるが、人間関係で発生したひらめきは事実検証がされないまま事実になるような。
「相手がこう思っているに違いない」と思うといくらでもそう見ることができて、相手は自分を嫌ってるかもしれないし好きかもしれない。でも結局「わからない」になるんだが、そこで「ひらめいて、分かってしまう」と終わってしまうような。
そんなことを思った。