論理的であるということ

家が荒廃している。

疲れると家が荒廃する。

自分の机の周りにはペットボトルが20本以上散乱している。片付けるにはゴミ箱がいっぱいである。ゴミを捨てに行くことはできない。

 

自分が何かができないことに慣れているので、まぁそんなもんかと思っている。

根本的に耐えきれないくらい問題が起こったら対処すれば良いと思っている。

綺麗な方が良いが、綺麗じゃないといけないと思っているわけでもない。

 

自分は論理的に話す人間である。

だから、論理は特に信奉していない。

 

論理とは人を騙すために用いられる。

論理には必ず、定義が必要である。論理を定義から演繹して結論を導くことだと思っている。

定義は好きに配置できる。だから結論も好きに操作できる。

論理とは所詮その程度だと思っている。

正しさとは程遠い。

 

最近、論理的であることが良いことだと思っている人がいる。

論理的であるとは、定義から演繹して話がなされるだけである。

それは別に良いことではない。

ただ合意形成はしやすいかもしれないし、人に説明して伝わる可能性も高いかもしれない。

所詮その程度である。

合意形成が必要なときには便利だし、人に何かを伝えたいときにも便利だ。

まぁスコップのようなものだ。スコップに良い、悪いはない。

使いやすいスコップと使いにくいスコップはあるかもしれないが、それは善悪ではなく、尺度の上での評価だ。

 

どうやら、このようなことが抽象的な対象に対しては通じないことが多いらしい。

 

世界が資本主義に染まっていると感じる。

論理性の信奉は資本主義が強めているのだろうか。少なくとも改善進化を遂げるには論理性が必要だろう。

再現性・検証には論理が必要だ。

 

でもまぁその程度だ。

 

別に資本主義が悪いと言いたいわけでもない。

資本主義が論理性を強調しているという構造が言いたいだけである。

 

しかし、結構通じない。資本主義自体の善悪か、論理性の大事さについての話になってしまう。

そもそも論理的に会話が不可能な人は会話ができないので、まぁそもそも通じない。

 

 

とりあえず、少なくとも皆が大事だと思っているという点においては、強い違和感がある。