真実と正しさについて思ったこと

日常生活やTwitterでは架空のことしかつぶやかないので、ブログは基本的に真実の話をするようにしています。

 

自分の中では真実と正しさは異なるものだと思っています。

真実は感覚的にスキャンダラスで、理想とは程遠く汚い現実であり、正しさはその汚さを踏まえつつ、世界や周囲と折り合いをつけるために調整された、合意可能な世界だと思っています。

 

例えば、自分の理解している真実の一つは多くの人々は他者の言葉をほとんど理解することができず、相手の言っていることを理解し、意図を汲み取り、それに対して適切な行動ができるというのは限られた人のみができる能力だと思っています。

それを正しさの側面で理解すると、相手に伝える場合は相手の気持ちを考え、人が理解しやすいデザイン・表現を考えながら伝える必要がある、ということになります。

 

真実の特性について述べます。

 

真実は伝達されません。それは真実はその内容のスキャンダラスさや元も子もない感じが他者に伝わりにくく、言葉にしても「直感的に何か違うな」と素直に飲み込みにくいからです。真実は耳にしても、必ず記憶には残りません。

 

反証可能であることは真実ではないことを意味しません。

真実は論理のような空虚なものによって支えられていないからです。論理は前提によって成立しますが、真実は論理とは異なりただそれのみによって存在しています。

 

自分の中では真実は生きていて発見した経験知で、正しさは多くの人が伝え語ってきた集合知です。

 

正しさは真実に基づいて構築されないといけません。最近は真実の無い正しさが多く存在するように見えます。真実に基づかない正しさはそもそも正しいのか?という疑問も湧きますが、正しいかのように表現されている正しくないものの多くは真実に基づいていません。

そういう意味で正しさはとても論理的である必要があります。正しさは論理的なので、とても空虚です。それは所詮ランダムに配置された前提の射影に過ぎません。

ただ正しさを他者に伝えることは人生の娯楽の中でもかなり上位に入るのでオススメです。

 

逆に真実が伝わらないということに嘆いても意味はありません。そもそも真実は基本的に伝達不可能なものだからです。なにかの偶然により真実が共有されることもありますが、偶然だと思ったほうが良いでしょう。

 

真実を発見し、正しさを構築して、他者に伝え人生を楽しんでいきましょう。