生きるのが辛くない

https://shinitori.net/diagnosis/?m=mail&e102=4&e101=3&e202=4&e201=4&e302=0&e301=-1&e402=2&e401=7&e501=6

 

死にトリというサイトが流れてきた。

自分は生きるのがつらい指数は3点だった。だいたい平均20点前後、辛くなってくると40点前後らしい。割と低い。自分は生きるのが辛くないらしい。

 

そういえば、最近希死念慮が薄くなったなとは思った。昔はもっと死にたかった気がする。今も別に生きたいわけではないが、まぁ生きるも死ぬもなるようになるだろうな、というこだわり無い感じでやっている。

 

友人などの点数を見ると、自分の中で解決された問題について悩んでいる人は結構点数が高いように見えるので、もしかしたら昔は自分も高かったのかもしれない。

相手の悩みはそう特別ではないと思っているが、それを言っても何が起こるわけでもないので、特に口にしない。自分の悩みも今振り返ると、本来普通に乗り越えるべきものが、予想もしない石によって乗り越えられていなかったと後から気づくのみである。

 

 

「いきていくのは簡単で、いきない方が遥かに難しい」

 

 

「3331」という曲があるのだが上記はその歌詞である。自分はこれが好きだ。

自分は多くの信頼できる友人がいるし、どん底に落ちたときに助けてくれるであろう姉弟がおり、そもそも現在レベルでは使い切れない以上の金もあり、仮に無一文になっても困らない能力とスキルもあり、逆に特別に責任のある立場や生まれでもないので何かを為さねばならないというプレッシャーはない。

上記のものも特に頑張ったり、努力で獲得したわけではなく、何か普通にあるな、という感想である。

生きていくのは簡単で、いきない方が遥かに難しい。

 

ただ夢や希望が弱いので、あんまり人がなりたい姿ではないので、そんなに嫉妬もされない。一つの側面としては羨ましがられるが、総体としては何かが欠けていて、なりたい姿にはならないらしい。

 

一時期は何かを為さねば、という気持ちになったがまぁまぁ凄いことを成した人と親しくなった結果、何かを成すにはそれなりの下地が必要で、自分にはどうやらそれがないらしいということも分かり、気にならなくなった。

むしろ、その人達もある種世代の下地の結果で成立していることが分かったので、自分のやるべき範囲でやって子孫に残すのが良さそうという結論になった。この点は、今んところ結婚の道筋が見えてないので若干達成され無さそうだが、妹が結婚したから多分大丈夫なんじゃないかなぁ、と楽観的に考えている。

それに、駄目だとしてもまぁちょっと残念なくらいか。

 

自分は思い浮かんだことについてはインターネットに放流したいと思っている。ツイッターは好きだ。ただツイッターに幸福について流しても、あんまり良く無さそうなので、読まれにくいところに書いている。

なぜ、わざわざ自分はこんなことをブログに書くのだろうか。自分は論理的に考えを深めていくのは苦手なので、いつも一問一答で考えてふんわり全体を把握することをよくする。

今回はなぜ自分はわざわざ幸福であるということをインターネットに書くのか。

 

誰かの幸福の助けになりたいのだろうか。

否。そもそもこれ読んで幸せになる人はいないだろう。

 

誰かに自慢したいのだろうか。

そうかもしれない。ただ仮にこのブログがバズって多くの人に読まれたら、多分記事は消す気がする。あんまり読まれたくはない。

ちなみに自分は友人にも割と幸福で賢いということを主張する。ただそれは周囲の人が同様に幸福で賢いので成立しているという自覚がある。環境が変わったらやめる。

 

なぜ、手元の日記でやらないのだろうか。

これは難しい。自分の中では140字を超えたツイッター感覚なので、多分何となくボトルシップしたいのだろう。何となくだろう。人間の行動にすべて意図を考えるのは不毛である。

 

 

結局、特に理由はなかった。不都合があれば消すし、不都合がなければ残す。

自分の預かり知らぬところで発生する不幸はまぁ預かり知らぬ。

 

例えば、仮にこのブログを友人知人に広まったところを想像してみる。

自分の理解では、自分は友人知人から特に問題もなく淡々と自分の世界を生きてそうだと思われている気がする。読まれてもまぁ自分が考えてそうだなと思われて終わる気がしている。

 

友人知人について考えていて思った。

皆僕について詳しい。私の考えていることについて、皆私より分かっているなと感じる。だからきっと自分がわざわざこういうことを書く理由も察しがつくのだろう。むしろ聞いてみたいくらいだ。