解釈をつける

アベノマスクみたいな言い方が苦手です。そういう言い方をしている人がいると、軽蔑というほど強い感情ではなくても、「そういう言い方をするんだなぁ、うーん、やめたほうが良くない?」くらいの淡い感情を抱く。

 

こういう感情を文字や言葉にすることが、自分はとても苦手だ。

いや、もちろんそれっぽい理由は付けられる。でも、それは理由ではなく、解釈であって、解釈に過ぎないものを理由というより深く重要なものとして表現するのは一種の錯誤を生むような。

 

「Aが存在し、Bという解釈がなされた」と「BなのでAである」というのは大きな差異がある。多くの場合はそうでも心に対しては為さない方が良いような気がするのである。

要はバランス

最近、「要はバランス」を心がけている。

 

正しさが失われた世界では、正しくなりすぎないことを意識しないとならないのでは。

 

仕事をしたら、遊ぶ。

遊んだら仕事をする。

読書や映画などを見たら、人と会話をする。

人と会話をしたら、サウナで瞑想して過ごす。

 

何かをやり過ぎないようにしている。

 

何かをやりすぎないように意識したら、次はそれを相対化し、やりすぎないことをやりすぎないようにする必要がある。

 

もう少ししたらなにかに集中的に没頭しようかと思う。

意見を採択するということ

最近、正しさというのはなく、人の数だけ正解と正義がある、という感覚は定着してきた感じがある。

 

とはいえ、自分は正しいと信じることをする他なく、多くの正しそうなものから一つを選択するしか無い。昨今なら外出するor自粛するも状況により、人により様々な判断がなされている。

 

ある前提を配置すると、最後の結論まで至るのはそんなに難しくない。難しいのはどの前提を採択するか、ということである。これには答えがない、前提を採択する理由を考えたとき、前提を採択した理由を採択する理由が必要になり無限後退が生じる。

私達はどこかで「無根拠に」理屈を採択しないとならない。

 

私は前提の採択の方針をある程度決めている。まず、ここで言う「前提」とはある決定を成すための情報である。そして、その情報は他者(個人/機関)であるとする。

つまり、自分以外の他者がもたらした複数の情報から、どれかを採択して意思決定をするという場合のどの他者の情報を信用して採用するのか、という問題を想定している。

 

採択しようと思うのは以下の場合である。

  • 情報が成立する前提が明示されている、特に成立しない条件について考慮されていること
  • その人が間違っていたり、ウソをついていた場合を想像し、その際に諦めがつくこと

大体この2つである。

この考えはハーバーマスのコミュニケーション的理性に少し影響を受けている。

ハーバーマスは「正しい意見」として3要素をあげている。

  • 事実に基づいて話していること(事実性)
  • 事実から結論への論理が破綻していないこと(論理性)
  • 発言者がその意見を信じていること(誠実性)

 

ハーバーマスの意見は少し抽象的なので自分の感覚に捨象すると、事実性と論理性が合算され、誠実性はより自分の主体を中心とした味方に変化する。

大体こういうふうに勝手に捨象すると、正しさは薄れるが使いやすさとは正しさから離れた位置に存在する気がしている。

婚活を通して幻想を解体する

「結婚興味なさそうなのに、なんで婚活なんかしてるんですか?」

 

仲がよく、歯に衣着せぬ物言い(褒めてる)人たちによく聞かれる。

 

今までは何となく適当に曖昧に流していた。適当に曖昧に流すというのは比較的簡単で、成立しない前提を置いて論を進めると大体そうなる。

成立しない前提とはつまり信じていない前提である。相手は疑念を呈しこそすれど、前提自体が成立しないことの論証は本質的に不可能なので、まぁそうなる。

 

そこまでしてちゃんとしたことを語らないのは、結局自分の中でもその正体は不明だったからである。

良くわからないことは語れない、自分の中では理屈や考えは「ある」ものではなく「発見」されるものである。「なんでこれをするんですか」の場合、「探しているところ」というのが適切な回答になることは多いがが、あんまりこの感覚は共有されることはない。

 

最近「日本婚活史思想序説」を読んだ。

 

古今の日本における婚活の隆盛と、その機序を解説した本でとても面白かった。

 

 

日本婚活思想史序説: 戦後日本の「幸せになりたい」

日本婚活思想史序説: 戦後日本の「幸せになりたい」

  • 作者:信, 佐藤
  • 発売日: 2019/05/31
  • メディア: 単行本
 

 

その中で、現代の婚活が条件や個人を商品とみたてた「マーケティング婚活」が一般的になっている。そして、マーケティング婚活とは巨大な妄想との対決であると言われていた。

 

マーケティング婚活論は、敢えて単純化すればある巨大な妄想との徹底的な対決と表現できる。

 

妄想には「唯一幻想」「好条件幻想」「来訪幻想」「冬眠幻想」などと例が並べられていたが、要するに「白馬の王子様(お姫様)」がいるという妄想とどう向き合うか、という話である。

 

ここを読んでいてストンと腑に落ちることがあった。

 

つまり、自分は自分の中のこの幻想を上手く解体できておらず、その解体を求めて婚活をしている感覚があるな、ということ。

結婚をするというのは、本質的な目的ではなく解体の結果としての結婚を求めているような気がする。

 

「いや、白馬の王子様なんか物語だけでしょう」という言葉は正論で、「言葉では」それを理解している。一方、自分がそれを正しく内面化しているかというと甚だ疑問がある。人生において、様々なものが解体され、無意味と感じていく中、その側面はまだ残っている部分のような気がしている。

それを何となく感じていたため、対応策としての「マーケティング婚活」とも呼ばれる解体された世界を覗いてみたくなったような気がする。

 

こういう話を人にすると、「なんか簡単なことに難しい理由付けをするね」という話を言われるが、基本的に自分の行動が意図不明な場合にはあとから事後的に解釈する羽目になる。

解釈を挟むと、筋を通さないとならず、そうすると通常より深めに前提を置く必要がある。結果、「なんか簡単なことに難しい理由付けをする」羽目になる。

 

昔は難しい理由付けと揶揄されたときに、強く反論していたが最近は笑って流している。あんまり自分の行動が意図不明という感覚が無いと、この感じも伝わらないのかもしれないと思う。

 

この行動が意図不明という感覚も、思慮深いのようなニュアンスではなく、自分の発達の遅れという構造で認知している。結局、自分が何をしているのかずっとわからないまま流れるように生きてきたので、本来は15歳くらいで達成すべきことを達成できてないまま30近くまでやってしまったので、まぁ感覚的差異はあってしかるべきなのだろう。

つまり、この相手が分かってくれないという感覚は「大人は分かってない」という若者の言葉に親しい。

 

 

話を戻す。

 

問題の所在と目的もわかり、あとはまぁ経験による体得されるのだろう。

そう、そこには自分との対話が求められている。

 

なのでサウナに行く。

自己肯定感の正体

「Bは正しい」というとき、そこには論拠が必要となる。

つまり「Aなので、Bは正しい」になる。 この文章の正しさはAに対する論拠が正し差によって保証される。

「Cなので、Aであり、よってBは正しい」になる。

これを保証するには更にCに対する論拠Dが必要となる。このように正しさは無限後退していく。

この最後には「私がそう思うので、Xは正しい」のように、正しさを一手に引き受けている存在というものがある。

その正しさの引き受け手が紛れもなく自分であるし、 そうとしか考えられないという自覚を持つときに周囲からは「自己肯定感」という言葉を投げられるのかもしれないと思った。

結果で判断しようとしたときに起こること

人を評価する際に、具体的な数値や結果で評価して欲しいという話はある。 しかし、結果で評価した際にも評価者と被評価者で意見が合うことは難しい。

それについて考えたこと。

なぜ、結果で評価しようという話が出るのか。 1. 何を頑張れば良いのか具体的に教えて欲しい 2. 好き嫌いのような好みで評価されたくない(正しいことが存在して欲しい)

大体この2つのような気がする。

大きな抽象的なことを具体的な数値に落とした時点で必ず削減される次元が存在する。 この削減の程度が思ったより大きいことが認識相違になるのではないか。

考慮されていないもので思い当たるもの。

  1. 評価の数値を1:1で報酬とマッピングできない

評価は最終的に給与に反映されることが期待される。90点の人が30点の3倍の給与を与えるという制度は実現が難しいだろう。

また、評価はどうしても積分になる。今までずっと優秀だった人がたまたま不調だったときに、突然給料が1/3になるのは少なくとも従業員視点では長くいたい会社にはならない。

そのことから、数値で評価をしても結局最終のアウトプット(給与)の間に中間レイヤーが多数挟まるので、1:1対応とはいかない。 逆に数値が良いため社内評判は良くなっているが、給与に反映されない(ように感じる、本当は一定のディレイを持って行われる)ということが発生しそうである。

  1. 評価の数値の決め方を定義できない

例えば、数値で結果目標を定義して、届かなかったら0点、届いたら100点という制度が上手く行かないことは容易に想像できる。 1足りないことと、100足りないことの差異が吸収できない。

では、%で考えたらどうだろうか。達成率90%は90点、達成率30%は30点のような。

これは2つの点で問題になる。一つは達成の進捗が線形であるという前提があること。達成へのステップが階段上になっていた場合、本当に評価したい際以上のものが発生されることが想像される。

また、会社からは評価というのは本人の能力と相関することを期待される。 だが結果に本人の能力の寄与度は定義されていない、なので周囲はほとんどあの人のおかげだった、とかあの人は何もしてないのような暗黙のパラメータを導入し、この点数に対する彼の寄与度は40-80%のような曖昧な捉え方をすることになる。 このとき好意的な人は80%と見積もるし、批判的な人は40%として捉える。(具体的な数値がないので結局そうなる) これは当初の「好みで評価されたくない」というのが結局内包されてしまうことになる。

  1. 評価数値自体が確からしいかが状況によって変化する

本人の残した結果は本人の能力と相関が1.0ということはないだろう。例えばこの時期に飲食店の売上が上がらないときに、その店長の能力で何とかなる範囲は限られる。逆にこの中でも、ある程度被害を抑えたらそれは評価の対象になりうる。 おそらく、現在期初の目標のようなものはコロナの影響があり無実化している、そうすると目標は別に変わっていることになる(被害を抑える、コロナ後のために種を蒔くなどなど)ただ、そんなにリアルタイムに数値目標を立てることはできない。 結果、数値目標はあるが結果発表時点では信用できない数値目標が存在する。

数値目標を立てるのは方針がわかりやすく良いと思うが上のようなことは起こるよね、ということを評価者・被評価者が同意しないとうまく機能しない気はしている。

とろとろ

「自分が何者にもなれなかったときに、なりたかった姿をイメージすると具体策につながる」

みたいな話を見た。

 

それを見て思ったが、人生で「こうなりたい」のような姿を具体的な人に見出したことがない。

人生で誰かを羨んだり、妬んだり、憧れたりしたことが殆どない。それは響きだけはとても健全だが実態は健全な価値観を抱くことができずにここまで来たという失敗のなれはてだと思っている。

 

ただ幸い、なれはてはなれはてなりの生き方をするしかないなと特に気にせず生きている。

 

 

自分が理解できない価値観や行動をある側面でもって正しい理論を持って論破し、バカにするという行動をインターネットでよく見る。

理解できない価値観や行動は自分が知らない情報や前提があり、自分が想像できない論の進め方があるのみと考えたほうが健全ではないか。

 

最終的にはどうせ大したことのない前提の比べ合いにしかならないのだから。