考えるのをやめるということ
最近、よく考えるのをやめている。
一般に言われる思考停止とは、停止しているというよりはそもそも発想がないということが多い。
「思考停止しているよ」と言われて、「じゃあ開始するか」となる人はいない。
だからこそ思考停止しているという指摘はあんまり意味がない。人に空を飛んだ方がいいよ、ということの無意味さに近い。
自分が言う考えるのをやめるとは、どちらかというとプロセスのkillに近い。
CPUを効率良く使うにはバックグラウンドのタスクはkillしといたほうが良い。
答えのない問題はCPUをかなり専有する。ループ文から抜け出さないか、無限の再帰によりメモリが溢れる。
だから、仕方なく思考を停止する。自分の限界と最適化の手法である。
だから、皆思考停止はちゃんとしたほうが良いと思っている。
必要な時に考え、不必要な時に停止する。しかも、結構メモリ領域がプロセスごとに独立していないことも多い。
バックグラウンドのタスクによって、別のタスク領域が影響を受けていたり、過去考えたことが別の考え事に強い影響を受けている。
人は状態が残りすぎている。
1日前の自分と今の自分が同じだと思っているし、同じにしようと頑張っている人もいる気がする。
良くわからない。正確には分からないわけでもないが、考えてみたらまぁ特にそういう理由はないと自分はなる。
つまり一貫性が必要であるという前提が置かれているのだろうか、それなら分かる。
なぜ一貫性が必要という前提が置かれているのだろうか。分からない。本当は分かる。約束事を簡単に忘れられると困る。ある暗黙の約束のもとでないと人は活動出来ないことが多い。だから相手は一貫性を持っていて欲しい。
でも、それはデータや約束の永続化の問題でありCPU側がその役割を担う必要は特に無い。
必要なのは永続化であり、個人の一貫性ではないような。
ただ前提からの演繹が苦手だと、一貫性や状態の保存が必要になる気がする。
前提を定めると結論が定められるなら、別に覚えておく必要はない。定義をその瞬間に置かれれば全てはだいたい分かる。
ただ演繹ができないと覚えるしかない。覚えて、覚えて再現するしかない。
一貫性とは演繹というよりは学習によって振る舞いが行われている場合に必要になるのかもしれない。